個人的な書き物

個人的な書き物を、ここに静かに書いていくつもり。

今日は2023年6月某日。私の暮らす福岡県福岡市は晴れ、少し湿った涼しい風が窓から吹き込んでいる。住まいのすぐ近くに玄界灘を望む港湾があり、風のなかにかすかな潮の香りと空気の粘り気を感じる。

地元の相方には潮の香りがあまりわからないらしいが、私は19歳まで三重県の海辺で育ち、その後、大阪、東京と都会の真ん中に暮らした上で、福岡へやってきたので、都市による空気の違いには敏感だ。

大学生になり、大阪に住み始めたときは、排気ガスのにおいに敏感で、歩道を歩くだけでも「このまま大阪に暮らしていたら死ぬのではないか」と思えてならなかった。

社会人になり、東京に出たときは、同じくらいの排気ガスが立ち込めていたはずだが、大阪ですっかり慣れてしまっており、今度は空気の乾燥が気になった。東京の冬の風は、体を斬りに来ているのかと思うような鋭さがある。

さかのぼって三重の海辺の実家はというと、夏場、夕方になると町内に腐ったイカの塩辛のようなにおいが立ち込めていたことを思い出す。

海辺は、熱しやすく冷めやすい地表の温度と、熱しにくく冷めにくい海面の温度との兼ね合いで風向きが変化するのだが、朝方と夕方に、地表と海面の温度が一定になる時間帯があらわれ、風が止まるのだ。

「朝凪(なぎ)」「夕凪」と呼んだりする。

凪になると、海辺で行き倒れているいろいろな生き物の死骸や、釣り餌、腐った魚貝などのにおいが立ち上りだす。当時は浜辺で干物を作っていたから、そのにおいも、じんわりと町内に広がっていた。

潮風による鉄錆びもすごかった。

中学に入学する際に買ってもらった通学用の自転車は、実家に置きっぱなしになる夏休みの期間中に、バッキバキに錆び上がる。

学校は内陸の丘の上にあったので、通学期間は潮風から逃れていて調子が良かった。ところが、新学期になって再び乗り始めると、ペダルを踏むたびに、びええええ、ぎええええと赤ちゃん怪獣のようなきしみ音を鳴らし出す。スピードに乗るとしばらくは静かになるのだが、赤信号でブレーキをかけると、

「ギゲヒョヴエエエエエエエエ! ……テッ」

この世の終わりのようなデスメタル的咆哮を上げてからしか停止できないので恥ずかしかった。

CRE556とか、サビキラーとか、便利な化学薬品があることを知らなかったので、「ひたすらこいで、錆びを振り飛ばすしかない」なんて思い込んで、必死になって高速立ち漕ぎで通っていた。脱水機の要領で、錆が飛んでいくような気がしていたのだ。いつの間にかきしみ音は小さくなっていたけれど、立ち漕ぎとの因果関係はよくわからない。

群馬県の草津温泉に暮らす友人によると、温泉街は電化製品の錆びがひどく早いらしい。ただ、目の病気にかかる人が少なく、街に眼科がないのだと言っていた。いつの間にか順応している空気には、常に少なくない影響を受けている。

いま暮らしている福岡市は、三重の実家ほどの濃密な潮風ではないから、心地がよい。自転車は、2カ月前に買って駐輪場に置いたままだが、まだ錆びていない。いまのところは。