書かずにいられなくて、すみません。

「あの作品を書くのに葛藤はなかったんですか?」

「本当は書くのは嫌だけど、作家魂に負けて書いたのではないかと想像しているんですが」

2023年6月某日。YouTuberのKさんの生LIVEにゲストで出たときにこんな質問を受けた。20代の頃、多額の借金を返すために風俗店で働くことになった体験を書いた『エム女の手帳』(幻冬舎)のことを指しているのだと思うけど、「書くのが嫌」という気持ちなんて、自分にはこれまで1ミリも生じたことがなかったので、面食らってしまった。

あの頃は、最低最悪の底辺にいる自分の状況と、そんな自分を取り巻く日々の出来事が、あまりにおもしろすぎて、毎日毎日、腹を抱えて笑い転げていた。

「この出来事、どう書いたら、人が読んで笑うだろうか」

それしか考えられず、もはや「書かずにはいられない」状態だったのが、そのまま原稿になったというものだ。

ピュアに暴れまわる表現したさを引き留めようとする人もいなかったし、「いや、考え直そう」と常識的に思いとどまるような出来事も起きなかった。だから、暴走しすぎてついてこれなくなる人もいる作品になっているんだと思う。

まあ、そもそもが、アタマのネジが飛んでいる上に、起業に失敗して人間関係も破綻し、まともな人は離れていったという状況。世間から弾き出されて、文字通り「裸一貫」の若いおなごが、文章力だけを握りしめて、東京砂漠にポイッと放り出されたのだから、そうなるのも必然なわけで。

一般的には、伏せておきたい「人生の黒歴史」だし、事実、親友から電話がかかってきた時は、相手の悩みは聞いても、自分の近況は一切話さなかった。「軽蔑されるかも」と思っていた。

だから、そんな内容を書いて人目に晒すなんて、「嫌」という感覚が、やはり普通なんだろう。

ただ、私の場合、親友に打ち明けるかどうか悩む以前から、『エム女の手帳』の原版になる『オンナ部』というホームページのエッセイ執筆を最高に楽しんでいた。

毎日がんがん書きまくっては、ひとりで机を叩いて大爆笑。

当時はまだブログという仕組みがなかったので、フォトショップで画像を作って自力でデザインし、HTMLを手打ちして原稿を流し込み、FTPソフトでアップロードするという手間のかかる作業だったが、アクセスカウンターがぐるぐる回転していくのを見て「そやろ? おもろいやろ?」と手ごたえを感じていた。

本名こそ明かしていなかったが、私は、「これは絶対に出版できる」と信じ込んでいたので、出版社の目にとまるためにも、できるだけ広めてやろうと考え、プロフィール欄に自分の顔写真も公開していた(後日、その写真が出会い系サイトの広告に盗用されてどえらいことに…)。

もし、身近な人に発見されて、問い詰められたら、困ったかもしれないが、アクセスカウンターは1日3万~5万の勢いで回転して、「人気サイト」と呼ばれるようにもなっていた。

いくつもの雑誌で紹介されていたし、当時、テクノロジー系の雑誌によく挟み込まれていた付録のCD-ROMにも、『オンナ部』ホームページへの紹介リンクが収録されていた。ラジオ番組からもオファーがあって、「おもしろサイトの執筆者」として電話で生出演したこともある。

掲載や出演の告知、感想もガシガシ書きまくって、心のなかで「出版社、早く私に気づけー!」と念じていた。あの時の勢いなら、仮に誰かに発見されて何か言われたとしても「アンタに何がわかるんやぁーーー!」なんてはねのけて続行していたと思う。

葛藤する程度なら、最初から書いていないのだ。

ただ、出版されたあと、身内が知ったときは、もちろん「問題発覚」である。母親は電話の向こうでギャンギャンわめいて罵詈雑言の限りを言い尽くしていた。

「そりゃそうだろうな」と思ったが、もう出版しているし、私には、とにかくその作品を、作家として書いて出版することが、その時いちばんの人生のテーマだったのだからどうしようもない。

ネジの飛んでいる人に、「お前はなんでネジが飛んでいるんだ!」と怒っても通じないもので、時間とともにまた周りの感覚も変化するだろう、今後もいろんなテーマで書いていきたいのだからと、やたら達観モードで眺めつつ、このまま走るぜという感覚だった。

こういう感覚を含めて「作家魂」というものだとしたら、私は自分の表現欲によって自分の身の回りの人を犠牲にしているし、でも、それをやめろと言われても、

「無理なものは無理なんです。だったら一人でやっていきます!」

と答えるしかないし、そうしてしまう。

私は「社交的」と思われがちなのだが、実は、人づきあいが大嫌いだ。そういうところも、こんな性根とつながっている気がする。

投稿日: カテゴリー 随想

個人的な書き物

個人的な書き物を、ここに静かに書いていくつもり。

今日は2023年6月某日。私の暮らす福岡県福岡市は晴れ、少し湿った涼しい風が窓から吹き込んでいる。住まいのすぐ近くに玄界灘を望む港湾があり、風のなかにかすかな潮の香りと空気の粘り気を感じる。

地元の相方には潮の香りがあまりわからないらしいが、私は19歳まで三重県の海辺で育ち、その後、大阪、東京と都会の真ん中に暮らした上で、福岡へやってきたので、都市による空気の違いには敏感だ。

大学生になり、大阪に住み始めたときは、排気ガスのにおいに敏感で、歩道を歩くだけでも「このまま大阪に暮らしていたら死ぬのではないか」と思えてならなかった。

社会人になり、東京に出たときは、同じくらいの排気ガスが立ち込めていたはずだが、大阪ですっかり慣れてしまっており、今度は空気の乾燥が気になった。東京の冬の風は、体を斬りに来ているのかと思うような鋭さがある。

さかのぼって三重の海辺の実家はというと、夏場、夕方になると町内に腐ったイカの塩辛のようなにおいが立ち込めていたことを思い出す。

海辺は、熱しやすく冷めやすい地表の温度と、熱しにくく冷めにくい海面の温度との兼ね合いで風向きが変化するのだが、朝方と夕方に、地表と海面の温度が一定になる時間帯があらわれ、風が止まるのだ。

「朝凪(なぎ)」「夕凪」と呼んだりする。

凪になると、海辺で行き倒れているいろいろな生き物の死骸や、釣り餌、腐った魚貝などのにおいが立ち上りだす。当時は浜辺で干物を作っていたから、そのにおいも、じんわりと町内に広がっていた。

潮風による鉄錆びもすごかった。

中学に入学する際に買ってもらった通学用の自転車は、実家に置きっぱなしになる夏休みの期間中に、バッキバキに錆び上がる。

学校は内陸の丘の上にあったので、通学期間は潮風から逃れていて調子が良かった。ところが、新学期になって再び乗り始めると、ペダルを踏むたびに、びええええ、ぎええええと赤ちゃん怪獣のようなきしみ音を鳴らし出す。スピードに乗るとしばらくは静かになるのだが、赤信号でブレーキをかけると、

「ギゲヒョヴエエエエエエエエ! ……テッ」

この世の終わりのようなデスメタル的咆哮を上げてからしか停止できないので恥ずかしかった。

CRE556とか、サビキラーとか、便利な化学薬品があることを知らなかったので、「ひたすらこいで、錆びを振り飛ばすしかない」なんて思い込んで、必死になって高速立ち漕ぎで通っていた。脱水機の要領で、錆が飛んでいくような気がしていたのだ。いつの間にかきしみ音は小さくなっていたけれど、立ち漕ぎとの因果関係はよくわからない。

群馬県の草津温泉に暮らす友人によると、温泉街は電化製品の錆びがひどく早いらしい。ただ、目の病気にかかる人が少なく、街に眼科がないのだと言っていた。いつの間にか順応している空気には、常に少なくない影響を受けている。

いま暮らしている福岡市は、三重の実家ほどの濃密な潮風ではないから、心地がよい。自転車は、2カ月前に買って駐輪場に置いたままだが、まだ錆びていない。いまのところは。

投稿日: カテゴリー 随想