「〈長男崇拝〉男尊女卑と地方消滅」

冠婚葬祭に現れる「男が上」の作法

 麻生太郎の地元は、福岡県の中央で「筑豊」と呼ばれる炭鉱地帯にある。曾祖父は明治時代の炭鉱王で、病院、鉄道、発電施設などを作って大事業を成した人物らしく、現在も、セメントなど建設関係、不動産、学校、介護施設、スーパー、書店、ボウリング場、ゴルフ場まで、麻生一族の事業によって地域経済の大部分が支えられている。
 町の真ん中にある麻生の自宅敷地は、車で一周するのに20分かかる広さで、自宅のほかに森と庭に囲まれた来客用の大邸宅があり、紅葉シーズンになるとそこが一般公開されて、旅行会社がバスツアーを組み、観光客を案内している。
 かような強固すぎる地盤(地元人脈)・看板(知名度)・カバン(カネ)を持つ麻生太郎は、まともな対立候補を当てられたことがなく、選挙では熱心に演説しなくても即当確の連続だったようだ。
 そして、その麻生の政治的感覚とベッタリ一体化しているのが、儒教と明治の家制度の影響を受けた男尊女卑である。
 筑豊地方だけではないが、主に福岡山間部の大きな家では、年長の長女よりも若い「長男」のほうが優先され、家長となって家のことを取り仕切るべきだという家父長制の風習が残っているのだ。
 特に冠婚葬祭の現場では、それがあらわになる。

席順は、男が上座、女が下座。嫁は最も下座。

女性が自分の身内にお祝いや贈答品などを贈るとき、実際に付き合いをして心遣いをしているのは女性本人であっても、差出人は女性の夫の名前。

親の葬儀の喪主は「長男」。長女が最年長であっても、最期まで介護したのがその長女であっても、喪主は「長男」。

女性が身内の葬儀に生花を出すとき、立て札は女性の夫の名前。

焼香は、長男、次男、三男…の順に呼ばれ、女性は長子であっても後回し。さらに、結婚している場合は、本人よりもその夫が先。

男性は「長男の太郎です。〇〇社に勤めております」としっかり紹介されるが、女性は「長男の嫁です」としか言われないし興味も持たれない。

 これらのことを小林よしのりさんとの生放送番組『よしりん・もくれん オドレら正気か?』で話したところ、視聴者から〈田舎あるあるだね〉〈岐阜の本家もそう〉〈愛知の田舎だけど、焼香の順番は福岡と同じだった〉などコメントが次々入っていたので、全国的に同様の風習が根付いたままの地域が残っているのだろう。
 ここまで厳格な序列には出くわしたことがないという人でも、例えば、こんな習慣があったりしないだろうか?

結婚式に親族の夫婦を招待するとき、招待状の宛書きは「山田太郎・花子様」と夫を上にした連名で書く。

 実際に日頃から深い関係を結んできたのは花子であっても、夫婦で招待する以上は、夫の太郎が上だと示す。逆に書いてしまうと、最悪の場合、太郎が気を悪くして「あそこの嫁はなんだ」という話にまで発展することがあり、親族間ではとにかく「夫を立てる」ことがマナーと化しているように思う。
 ほかにも、親戚一同が寄り集まると、男性は酒を飲んでいるのに、女性は台所に密集して立っていなければならないとか、食事中も女性はお酌や料理の取り分けなど気配りを要求されて、できないと年長の女性にいじめられるとか、「これでもか」というほど男尊女卑の作法が次々と現れる。

 特に葬儀や法事は「誰が墓を守るのか」という話と結びついてもいて、まるで戦前の家督制度が存続しているかのような様相になったりもする。

儒教、仏教、明治「家制度」のコンボ技

こうした風習は、単に田舎に漂っているなんだか古臭い価値観という程度のものではない。
 戦前の日本では、明治政府によって「長男が家を継ぐ」という仕組みそのものが、法律で整備されていたのである。
 「明治民法」では、全国民を戸籍管理するために、家には「戸主」と呼ばれる代表者がいて、その地位と権限を原則「長男」が継ぐという「家督相続」が定められていた。
 家督とは、今でいう「遺産相続」とは違って、財産、土地、家屋だけでなく、墓、仏壇、家名、家業、親族代表としての立場まで含む「家」そのもののことで、武士社会で発展したものだ。
 戦乱の時代は、領地や家名が重要だったし、一族の争いを防ぐためにも、一人の男に権限を集中させる必要があったのだろう。それが儒教的な「父に従い、家を守る」という価値観とも結びついていた。
 
 さらに、江戸時代に整備された仏教の檀家制度もここに絡みついている。
 江戸幕府は、キリスト教を取り締まるために、「家」を寺に所属させて、住民の管理・監視をさせていた。それが檀家制度のはじまりであり、「〇〇家先祖代々之墓」を守り、仏壇を引き継ぎ、過去帳に先祖の名を記して、法要のたびごとに「家の記憶」を受け継がせていくという習慣につながっている。
 特に、農家にとっては、土地と墓は切り離すことができないものだ。
 先祖代々の墓を守り、法事を絶やさず行うことが、「家を続ける」=「土地を守る」という意味になる。
 つまり、長男優先の「家」の制度は、農村の共同体を維持するために必要なシステムでもあったのだろう。
 男には「家を継ぐ責任」が、女には「家に入って家を支え、親族関係を維持する責任」が割り振られ、それによって土地や墓、地域共同体が保たれてきたのである。


 だからこそ、代々続く農家や大きな土地を持つ家、各地方の名主とされている家では、「家を絶やすな」という意識がいまだに強烈に残っていて、特に葬儀ともなると、「墓は誰が守るのか」「跡取りは長男だ」という話と結びつき、土着の儒教的呪縛からなかなか抜けられない。

 だが呪縛だけで「家」や「墓」を守っていくのも難しいだろう。
 私の父方の実家は、もともと「龍野」という家で、島根県にある浄土真宗本願寺派の寺だったのだが、いちばん大きな檀家の「泉」という家に子供が生まれなかったので、祖父が住職を引退して「泉」の養子に入り、墓を受け継いでいる。
 明治生まれの祖父の代でそんなことが起きていたのだから、今の時代に「先祖代々之墓」を守りつづけるというのも相当無理があるはずだ。
 実際、墓を撤去する「墓じまい」の件数は年々増えていて、年間16万件を超える年もあり、寺院の経営を揺るがしているそうだし(2026.3.13 Yahooニュース)、仏壇を置かない家も増えている。
 私の父は、祖父が受け継いだ島根の「泉」の墓ではなく、三重県の自宅そばの寺の納骨堂に収まっている。母には、島根の実家にあまり良い思い出がないらしいから、そうなるのも自然のなりゆきだろう。

「長男たるもの」と「長男はやめとけ」のギャップ

 私の知人に、麻生太郎の地元出身で、現在は福岡市内でデザイン関係の会社を経営している30代後半の夫婦がいるが、

「僕は次男だからこの仕事につけて良かったですね。兄貴は大変ですよ。うちの実家は農家なんで、親父が死んだら家を継がないといけませんから」

「ホントそう。私、この人が長男だったら結婚してません(笑)」

と話していた。
 男性は、儒教と仏教と明治「家制度」の“コンボ道徳”である「長男たるもの」という感覚を植え付けられて育てられ、とっくに廃止された「家督相続」の呪縛につながれたまま、職業の選択肢も狭められている。
 当然、そこに「嫁入り」する女性は、「長男の嫁たるもの」として過ごさなければならない。
 だから、女性が親に、結婚を考えている交際相手がいると打ち明けると、いまだに「長男じゃないよね?」「どんな実家なの?」「親はまだ生きているの?」と心配されることもある。
 いくら結婚は両人の合意で行われると言っても、結婚後にたちまち「家」を重んずる呪縛が立ち現れて、そこに引きずり込まれてしまう。そうした罠がそこかしこに転がっているのだ。
 
 「長男たるもの」と「長男はやめとけ」が、同じ時間軸に存在しているというのも滑稽な状況だが、明治時代の家制度の感覚を引きずったままの地域と、令和の時代を生きる人々とのギャップは開く一方で、実際、若い女性ほど地方から逃げ出している。
 この4月に民間機関が発表した調査では、2050年までに20~39歳の若年女性人口が半数以下になるのは、全国744自治体、全自治体の43.3%に上るとされ、そうした地域では人口が急減して、最終的に消滅する可能性があるという(データ参照)。

若い男も足らず、祭りは「外注」に…

 福岡県も、都市部以外では人口減少が進み続けており、産業だけでなく文化の衰退も激しい。
 最近、ローカル放送『地元検証バラエティ 福岡くん。』(FBS福岡放送)で知ったが、福岡県南部の筑後平野にある筑後市では、500年以上続く重要な祭りの担い手がいなくなり、地元とは一切関係のない人を全国から「外注」して開催しているという。
 筑後市の神社境内で毎年1月に開かれている「鬼の修正会(おにのしゅじょうえ)」は、無形民俗文化財に指定されている儀式で、直径1メートル、長さ13メートル、重さ1トンの超巨大なたいまつ3本に火を放ち、それを男性たちが「ワッショイ、ワッショイ!」と担いで、あたり一面に火の粉を降り注がせながら社殿の周囲を練り歩くというものだ。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000236.000041975.html

 人間ってやっぱり野蛮が好きなんだな、そのうち神社が全焼して終わるんじゃないかと思えてくる凄まじい火祭りなのだが、地元民には参加する人はほとんどいないらしく、近年は全国から「20歳以上の健康な男性」を募集して、ようやく成立させているのだ。
 番組でその様子に密着していたが、祭り当日の夕方になって現地の駅に参加者が集まり、初対面の人ばかりが路上で点呼して、挨拶もそこそこにまずは飲み会に突入。ガンガン飲んで酔っぱらった頃に、用意された白装束に着替えて、寒風吹きすさぶ中、「ワッショイ!」の掛け声を繰り返し練習したかと思うと、そのまま本番へと突入していった。
 参加者には関東や海外からの人もいて、筑後市とも神社ともなんのゆかりもないらしい。「激しい火祭りに参加してみたかった」とか「よくわからないけど人に誘われたので」という感じの人が多いようだ。
 
 もともとは神社の氏子、その土地の共同体に属する人々が、自分たちの郷土と先祖のために担った火祭りなのだろう。しかし現在は、初対面の人々が「イベント」として火を担いでいる。
 共同体を維持するために、「家を守れ」「土地を守れ」「長男たるもの」と若者を縛ってきたはずが、それゆえに若者を地域から逃がしてしまう。
 結果、「伝統の火祭りを絶やすわけにいかない」ということで、もはや祭りの担い手は誰でもいいという話になっていく……。
 共同体文化の抜け殻化、とでも言おうか。

 一方で、中心都市の福岡市には、若者がどんどん流入していて、人口における若者率は全国トップ、特に15〜29歳の若い女性が人口の10%を占めているという状態だ。
 福岡市は九州全体から人が集まりやすい場所で、「都市部のほうが仕事が豊富で暮らしやすいから」「娯楽が多くて楽しそう」という理由があるのだと思うが、そこにはやはり、自分の地元や家をふんわり覆っている土着の呪縛から抜け出したいという感覚が張り付いているだろう。
 福岡市は、九州中の若者、とりわけ若い女性たちにとって、「家」から逃げ込む避難所になっているのかもしれない。都市部は、土着儒教からの亡命地なのだ。

 男尊女卑や家制度を「日本の伝統」として守り続けた結果、未来の担い手である若者から先に逃げ出していく。
 この状態で「カネを出せば、女性が子供を産んでくれるのではないか」と発想すること自体が大いなる勘違いだし、そこには「誰のカネで子供が産めたと思っているんだ!」と言い出しかねない男尊女卑が潜んだままだ。
 儒教、仏教、明治「家制度」――これらの絡み合う男尊女卑を解体できなければ、日本そのものが静かに消滅していくだろう。

(2026.5.18連載原稿より)