「災害報道と日本のジャーナリズムの行方」

先日、長崎県島原市を訪れた。島原市は、長崎県南東部の有明海に突き出した半島にある。

島原半島のこと、ずっと「腎臓みたい」と思ってました

島原と言えば、日本史のなかで必ず習う地名だろう。

イエズス会の宣教師によるキリスト教布教の中心地で、江戸時代には、禁教令に弾圧されていたキリシタンが中心となり、カリスマ的キリシタン・天草四郎を総大将として武装蜂起し、「島原の乱」が勃発。

鎮圧後は、オランダやシナなど幕府が許可した国のみの交易となり、国内統治を揺るがされないよう厳しく管理する対外政策へと転換した。

そんな島原には、もう1つ、私にとって記憶に残る出来事がある。

1991年(平成3)の雲仙普賢岳の噴火だ。当時は中学2年生で、テレビで知った災害だったが、連日の報道の様子を、30年以上経つのにやけにはっきり覚えている。

雲仙普賢岳は、1990年(平成2)に198年ぶりの噴火活動を再開。以降、4年半活動しつづけて、死者41人、行方不明者3人、建物被害は2,511棟に及ぶ大災害だった。

なかでも強烈だったのは、1991年6月3日に発生した「火砕流」だ。

当初、火口内に溶岩が観察されていたものの、流れ出ることはなく、噴煙を上げるだけの噴火を繰り返していた。

だが1991年6月3日、火口付近に盛り上がっていた溶岩ドームが崩れ、閉じ込められていた高温の火山ガスが爆発。噴石、岩のかたまり、火山灰などと共に一気に噴出し、山の斜面を猛スピードで駆け下りる「火砕流」が突然発生した。600℃以上の熱風が、時速100kmで通り過ぎた場所をすべて焼き尽くすという現象で、巻き込まれた41人が死亡した。

火山学者も火砕流を見るのは初めてで、テレビでは連日「火砕流」という言葉が解説されていた。その後、9月にも大きな火砕流が発生し、火口の南東方向にあったたくさんの民家や小学校が焼失した。

当時の報道映像のすさまじさ

さまざまな災害のなかで、なぜ雲仙普賢岳が今でも印象に残っているのかというと、当時、テレビで流れていた映像があまりに強烈だったからだ。

先ほど紹介したANNの映像は、火口の南側の地点で、カメラマンがカメラを置いたまま逃げ出したもの。まもなく火砕流が覆いかぶさろうとする直前で風向きが変わり、熱風が火口の東側(画面右側)へとすべて流れたために、この映像が残された。

だがこの時、火口の東側にある「定点」と呼ばれた報道ポイントでは、20人ものマスコミ関係者が火砕流に飲み込まれて死亡しているのだ。

当時は、「定点」の付近で、火砕流から這い出してきたばかりの人々の姿を撮影した映像が、そのままテレビで流されていた。

全身真っ黒焦げになって放心状態で歩く人、道路に倒れて「ギャー!」と絶叫しながらのたうち回る人、応急手当を受けながら痙攣している重傷者など、まるで原爆の写真で見た犠牲者のような姿だった。

 衝撃が強すぎて、私の記憶が誇張されているのかもしれないと思い、実は原稿を書く前に、とある所で当時の映像を見たのだが、やはり記憶通りだった。凄惨すぎて撮影しているカメラマンが嘔吐する声も入っていた。

今なら、ぼかしを入れても放送できないレベルのもので、ほとんどの人は耐えられないだろう。

報道映像は、「PTSDの原因になるから」と、どんどん弱い人に合わせるようになり、最近では、ウクライナの戦争報道にも影響して、ぼかしが入って何がなんだかわからないものになっていたり、各国の有力紙のトップを飾っている写真が、日本では一切扱われていなかったりする。

無理に見る必要はないが、まるきり現実を見せないようにしているなんて、実はとてもヤバいことだと思うのだが、残酷な現実を知ることは拒絶しながら、「見たことないけどそういうことにならないために議論しましょう」という仮想空間のような感覚が当たり前のように形成されている。

 

写真週刊誌時代

思春期の私が、火砕流発生後の衝撃映像を見てもPTSDを発症していないのは、それ以前から無残な映像や写真を見る機会があったからのように思う。

子どもの頃、テレビは長時間見せてもらえなかったが、社会を揺るがす事件や災害が起きると、父親がすぐに写真週刊誌を買ってきて、茶の間の座卓の上に置いていた。

1985年(昭和60)に日航ジャンボ墜落事故が起きた時は、『アサヒグラフ』『フォーカス』『週刊読売』『サンデー毎日』などが座卓に並んだ。

遺体を含む凄惨な墜落現場の写真がたくさん掲載されていて、凄まじいものがあったが、8歳だった私は、

「飛行機が墜落すると、こんなふうになってしまうのか」

「こんな中で6年生の子が生きていたなんて」

と受け止めていた。

ショックの強い場面はモノクロで印刷されていたこと、「撮っていいのか苦悩しつつ、泣きながらファインダーをのぞいていた」というような取材者の手記が添えられていたことをなんとなく覚えている。

テレビの速報性に負けて廃刊していったが、かつては、特に新聞社系列の写真週刊誌がものすごく気合いの入った現場取材をやっていて、事故や災害現場の超最前線に乗り込んでいた。

もちろん、どの写真を掲載するかは慎重に選ばれていたはずだが、むやみな自粛はなく、週刊誌文化も花盛りだった。その時代のなかで、私も、いろんな現場写真を覗き見ることになり、耐性がついていったように思う。

マスコミ不信と雲仙普賢岳の犠牲

ところが、雲仙普賢岳の災害報道では、最前線にいた報道陣が大バッシングを浴びることになった。

残酷な映像を流したからではない。

火砕流に巻き込まれて死亡した報道関係者のなかに、帯同していた地元のタクシー運転手4人が含まれていたからだ。報道陣を乗せて避難勧告区域に入り、撮影ポイントまで案内していた。

遺族からの声もあって、世間は「避難勧告を無視して過熱報道にいそしむマスコミが、地元の人間を巻き込んで殺した」とバッシング。

火砕流発生直前に、報道陣に退去を促しに行った警察官が殉職したことも「マスコミが巻き込んだ」と非難された。

また、一部報道陣が、避難で留守になっていた民家に上がり込み、無断で電話や電源を使っていたことが発覚。そのため、地元の消防団員たちが、避難地域の警戒に当たっていて犠牲になったという話も伝わり、ますます風当たりは強くなった。

過熱報道の末、留守宅に勝手に上がり込むのは無茶苦茶すぎるが、「巻き込んで殺した」はないだろう。

各社「もっとすごい映像を撮りたい」と競争して溶岩付近に近づくなど、かなり危険な取材をしており、退避勧告が出てもねばっていた末の出来事なのは事実だが、「勧告」は、「お勧めします」と告げることであって、強制ではない。

危険を承知しながら規制線を踏み越えて現場に留まるのは、報道にとっては当たり前の判断で、島原警察署も、強く勧告はしても、報道の使命に配慮して、阻止することまではしていなかった。

そもそも、当時は、火山学者ですら火砕流を見たことがなく、「どんなことが起きるかわからないから、あまり近くにいると危ないと思うよ」ということぐらいまでしか言えなかったのだ。突然、ふもとの町まで焼き尽くされてしまうなんて、誰ひとり想像していなかった。

タクシー運転手も、よもやそんなことになるとは思わないから、連日帯同していたのだろう。マスコミに強制連行されたわけではなく、自分の意思で引き受けたのがたまたまその日だったのだから、不運に見舞われたとしか言いようがないと思う。

消防団員も、もちろん報道の迷惑行為は警戒対象だったが、もともと自分の地域を自分が守りたいという志で消防団に入った人で、危険地帯と知りながら無人となった町を見回りしてくれていたのだ。

当時の島原市長は、地元被災者のために尽力したことで称賛された人だが、実はこの日、現場を視察するために、普賢岳に向かっており、インタビューでこう答えている。

「一番上まで行くつもりで市役所を出た。そしたら『ドーン!』と音が」

「(もし現場に着いていたら)行方不明になっていた。命拾いした」

もしも市長が30分早く出発して、報道陣よりさらに山の上へと向かっていたら、一緒にいた観測所や市の職員を「巻き込んで殺した」ということになるのか? そんなわけがない。

家族や友人を亡くした現実を受け入れ難く、マスコミに憎しみを向ける人がいるのはわかるのだが、世論が「マスコミ許すまじ」に傾いたのは変だった。

だが、「視聴率重視」「過度な過熱報道」という言葉が使われ、さまざまな場面での失礼な取材態度が問題視されはじめていたこともあって、テレビ各局は、この件について、ひたすら反省の態度を見せるしかなくなった。

現場で生き残った記者も上司も、悲壮な罪悪感に押しつぶされそうな発言しかしなくなり、命を落としてまで取材したマスコミの災害報道陣は、超絶嫌われ者になってしまったのだ。

令和6年になっても炎上する雲仙普賢岳報道

実は、この雲仙普賢岳での出来事、いまだに尾を引いている。

ネット上では「マスゴミ」と罵るための材料として幾度となく使われ、災害から丸33年となる今年6月3日にも、日テレの広報部が、Xに投稿した島原市での追悼式の様子を伝えるコメントが炎上した。追悼式の写真とともに投稿された内容はこうだ。

1991年6月3日に長崎・雲仙普賢岳で大火砕流が発生、報道関係者や警察、消防、海外の火山学者など多くの人が犠牲となりました。長野・御嶽山の噴火からもまもなく10年です。火山噴火はいまだに完全に予知することはできません。

この投稿に、「マスコミのせいで大勢死んだ」「人災とも言える」などの書き込みがあり、日テレはあわてたのか、投稿そのものを削除。それがますます批判されることになった。

SNSには「反マスコミ」が大繁殖していて、33年前よりも当たりがきつくなっているのかもしれない。

東日本大震災の原発報道は「いい子ちゃん」に…

 雲仙普賢岳以降、マスコミは「報道の安全」を徹底する向きが強まり、台風のときに暴風雨を浴びて見せるくらいで、危険地帯での取材はどんどん控えめになっていった。

 2011年(平成23)の東日本大震災の時は、国道直結でアクセスしやすい、リアス式海岸の象徴的な津波被災地の避難所にカメラが集まっていたが、福島の原発に関しては、30km以上も離れた場所から超高性能望遠カメラで撮影する程度で、近づいていこうとするカメラはなかった。

政府の発表もはっきりしないまま、そこまで仰々しく徹底封鎖されているわけでもなかったし、ジャーナリズムと言うなら、見たい、知りたいという蛮勇をふるって、避難区域に突入してしまう危険なマスコミが1社ぐらいあっても良かったのにと思うが、そうしたい記者がいても、会社としては「絶対ダメ」と制止するという状態になっていたらしい。

おかげで、「避難区域外から撮影しています」という注意書きのついたモヤモヤした映像がしょっちゅう流れていた。

 あの注意書きは

「ちゃんとお国の決めたルールを守っていますよ」

「危険なことはしない、安全を徹底した災害報道ですよ」

という、国民への「いい子ちゃんアピール」にほかならない。

いい子ちゃんに、いざという時、国民に真実を知らせるための逸脱ができるのだろうか?

戦場ジャーナリストの蛮勇も否定する時代に…

 危険を顧みず蛮勇をふるうジャーナリズムの代表と言えば、戦場ジャーナリストだが、日本では、危険地帯の取材に入り、危険な目に遭った人ほど冷たい視線を浴びせられるようになっている。

 2015年にシリアで反政府武装組織に拘束されて人質になり、3年4カ月後に解放されたフリージャーナリストの安田純平さんは、「お国に迷惑をかけた」「どの面下げて帰ってくるのか」という理屈で世間からバッシングされ、謝罪を余儀なくされた。

 「安田さん解放のために、日本政府が武装組織に身代金を払った」という誤情報にもとづく罵詈雑言で、「税金泥棒」という罵倒も後を絶たなかったらしい。

 実際には、日本政府は安田さん解放のための身代金など払っていないし、武装組織と直接交渉もしていない。シリアの反政府組織とつながりのあったカタールが、自国の立ち位置を利用して、国益のためにうまく存在感をアピールしたいという理由で一役買ったというのが真実だ。

 だが、「わざわざ危険な場所へ行って、迷惑かけて」と安田さんをなじる声は止まなかった。迷惑もなにも、どんな理由で危険な目に遭ったとしても、政府が自国民を守ることは、憲法で定められた当然の責務だろう。

しかも安田さんは、その後、パスポートを発給拒否され、海外渡航できなくなってしまっている。外務省は、安田さんがトルコから5年間の入国禁止措置を受けていることを理由に、「日本とトルコ、2国間の信頼関係維持のために必要な処分」と主張。

それならトルコに入国しなければよいだけで、世界のすべての国に出国することを制限するなんて明らかな憲法違反だろう。

ウクライナへも取材に行けないままの安田さんは、裁判で国と闘い、今年1月に東京地裁でその主張を認められたが、国側が控訴したため、まだ決着がつかない。

 同じくフリーの戦場ジャーナリストとして、グルジア、ロシア、アフガニスタンなどで拘束されながら取材してきた常岡浩介さんも、2019年、取材のためイエメンに渡航しようとした所、空港でパスポートが無効化されていることを知り、そのまま日本から出られなくなっている。

戦場ジャーナリストに対する嫌がらせとしか思えない。

「わざわざ危ない場所へ渡航して面倒なことになってくれるな。お国の決めた退避勧告を守れ!」

ということだ。

 そして、国民は、命を危険に晒しても紛争地を取材したいというジャーナリストの視点を殺し、自分たちの「知る権利」を進んで放棄しながら、そんな政府の言い分に乗っかるように、ジャーナリストを叩き、冷遇しているのだ。

「現実なんて危険で怖いよ。視界に入らないなら、わざわざ知らなくたっていいんだよ。ストレス感じたくないし、動画見たけりゃ現地の人がスマホで撮ってネットに流すんじゃない? 勇気なんか出さなくていいよ。勇気出す奴って理解できないし、見てると嫌な気分になるんだよ。安全第一! 危険回避!  危険かもしれないものには予め触れないことこそ人生さ! 命より大事なものはありません!」

 そんな心の声が、ますますジャーナリズムを根絶やしにしていくのかもしれない。

 (2024.7.23連載稿より)