「ブルマは誰のための服だったのか」

 私は昭和52年、三重県生まれ。小学6年生になる年に昭和天皇の崩御があり、中学3年間は平成のスタートという時代だった。
 中学の制服は灰色のブレザーとスカートで、体育の時間になると、女子は半袖の体操着と紺のブルマ、男子は白の短パンに着替えていた。冬はその上から長袖・長ズボンのジャージを着るのだが、基本的に「女子はブルマ」が決まりだった。
 小学生の時は体操着に赤い短パン、赤い体育帽子という子供っぽい服装だったので、「紺のブルマ=お姉さんの証」という印象があった。
 だが、中2、中3と年齢が上がり、友達との会話も「スポーツブラ? ホックブラ?」「ムダ毛どうしてる?」というような話題が増えると、なんだかブルマを恥ずかしく思う感情が芽生えた。
 男子は女子のブルマ姿に内心ドギマギしていたという話はよく聞くが、当時の私の感覚は「男子の視線」を意識したものではなく、女子どうしの会話のなかで、自分の身体について強く意識したり、比べたりするようなところがあった。
 虚弱体質だった私は痩せて青白かったので、胸が大きくなって悩んでいる子の気持ちを共有できず、コンプレックスを抱いてもいたが、体育の授業中にやたらと「はみパン」が気になりはじめ、何度も指で確認していたし、生理中はナプキンの形が響いていないかとひどく気にするようになっていた。
 中学3年になるとクラスの女子の中で「ブルマ、いやだ」という小さな反抗が生まれ、数人の女子が勝手にジャージの長ズボンをはいて体育の授業に出るようになった。私もそれに加わったのだが――。

 

 学校全体の体育行事でのことだ。
 グラウンドに体育着の全校生徒が集まる中、男性の体育教師が朝礼台に登り、拡声器で叫んだ。
「3年女子、ジャージをはいている者は立て!」
 私たちが困惑して立ち上がると、体育教師はさらに怒鳴った。
「ブルマになれ! ジャージを脱げーっ!」
 15歳の女子中学生に向かってだ。ショッキングな出来事だった。
 凍り付いていると「ジャージは違反だ、早く脱げ!」とさらに怒鳴られ、おずおずとズボンに手をかけたのだが、静まり返った全校生徒の視線を浴びながらそれを脱ぐというのは恥辱以外の何物でもなく、目に涙をためる子もいた。ジャージの下にブルマをはいていなかった子が「脱げません」と言うと、「なんで脱げないんだ!」とますます怒鳴られていた。
 平成という時代が走り出し、『東京ラブストーリー』の主題歌「ラブ・ストーリーは突然に」や、『ちびまる子ちゃん』の主題歌「おどるポンポコリン」が大ヒットしている浮かれた世の中だったが、体育教師には「ブルマに統一させなければならない」「ジャージを許してはならない」という絶対の規範があったのだろう。

ブルマの歴史と女子体育解放

強烈なブルマの記憶を持つ私だが、今となっては学校からブルマは消滅し、実物を見たことがない世代もいる。では一体あれは何だったのだろう。気になったので調べてみた。
 日本にブルマが導入されたのは、1900年代前半、「日本女子体育の母」と呼ばれる井口阿くり(いのくち あくり)という人物だ。

井口阿くり

 明治3年生まれの井口は、現在のお茶の水女子大学を卒業後、女子体育教育を学ぶために、文部省からの官費留学生としてアメリカへ渡った。
 富国強兵の明治期は、男性に従順で乱れず、強い日本人を産み育てられる「良妻賢母」が女性の理想とされていた。そのための健康維持の体操や、礼儀作法の動きは褒められても、スポーツをして激しく競い合って動く、つまり主体的に体を使うような動きは女性にはふさわしくないとされている時代だった。だが当時の政府は、日本人女性の体格が欧米人と比べて劣っていることに危惧を抱いていたらしい。
 欧米の女子体育教育を学んで帰国した井口は、「女性もスポーツをするべきだ」という新常識を唱え、着物や袴など、紐で体を締め付ける服装は女子の体育に向かないとして、アメリカで入手したセーラー服型のブルマとスカートを奨励した。

井口が奨励したセーラー服型ブルマ(右上)とスカート(下)

 当時のブルマは、モンペが膨らんだような、膝下までの大きなニッカボッカ風のものだったが、男性からは「女にスポーツをさせるなんて」と白い眼で見られていたらしい。

 原型は、1850年代にアメリカで女性解放運動を展開したアメリア・J・ブルマーという人物が広めたズボンだ。「女性が権利を得るには社会で働いて認められなければならない。身体を縛り上げるコルセットではなく、動きやすい服装でなければならない」という意図があったらしい。
 第332回「洋服の歴史~パリに“女子ズボン禁止令”があったワケ」で、フランス革命後、パリには自由を求めてズボンをはく女性が現れたものの、人権宣言に女性が含まれておらず、「女子ズボン禁止令」が発令されたという話を書いた。同じ目的で誕生して、禁止されずに残ったのがアメリカのブルマで、井口はそれを日本の女子体育教育のために取り入れたのだった。

古来、日本の女性は「立ち〇〇〇」が普通だった!?

そうか、ブルマは女性を自由にしていく象徴でもあったのかと思いながら、井口考案のブルマについて調べていると、驚くべき事実に突き当たった。
 先ほどの図をよく見ると、井口のブルマは、股の部分が左右に割れて、ボタンで留める仕様になっていることがわかる(ブルマから点線が伸びて、右下に詳細図が描かれている)。
 これは、古来からその時代まで、日本の女性には下着をはく習慣がなく、はいているものをずり下げて用を足すという動作も存在しなかったからだという。着物は、腰巻や襦袢などを体に巻き付けて重ねていくが、陰部は外気にさらしているのが普通だった。
 たしかに、成人式の頃だったか、祖母に「着物のときはパンツはいらんよ」と言われたことを覚えている。着物は骨盤の上あたりに打つ腰紐で支えられるので、防寒用のスパッツなんかをお腹の上まで引っ張り上げていると、それが腰紐に挟まれてトイレで脱げなくなることがある。

 さらに驚いたのは、都市化しはじめるまでの日本では、女性が外で立ち小便する光景が珍しいものではなかったという事実だ。特に農村などでは、畑や田んぼのあぜ道で、着物の裾をまくりあげ、立ったまま放尿していたのだという。
 明治~昭和初期に書かれた随筆や書簡などには、都市部に出てもその習慣が抜けず、公然と立ち小便する女性の姿が目撃され、驚きとともに書き残されている。


40歳ぐらいの田舎のおばさんが、(一橋)学園に迷い込んで来て…(中略)…つかつかと庭前の真ん中にある池の側に行って、あたりを見回しながら、急にお尻をまくって、立ったままシャアシャアと池の中に小便をたれ込んだ

佐藤弘人『はだか随筆』1954年


(昭和3年、銀座で)女はいきなり建物の壁に背を向け、手早くモンペを降ろし、やや体を前傾させ私の方を見てニヤッと笑った。やがて女の股間から放たれた水が、すさまじい音を立てて壁にはじかれた。たったひとりの目撃者である私にニヤッと笑いかけてから、女は心地良さそうに空を仰いだ

村松友視『旅を道づれ』1986年

 ほかにもバスのステップに立って裾をめくって公道に小便を飛ばし、ニヤニヤする乗客たちに笑顔で返す老婆の話や、書き手の男性に見られていても、おかまいなしに用を足す女性の姿がいくつも残されていて驚く。

 『男はつらいよ』の寅さんも、いつもこんな啖呵を切っている。

四谷、赤坂、麹町。チャラチャラ流れる御茶ノ水。粋な姉ちゃん立ちションベン。白く咲いたがユリの花。四角四面は豆腐屋の娘。色は白いが水臭い。

『男はつらいよ』車寅次郎の啖呵売口上

 寅さんの啖呵はデタラメではなく、本当に「粋な姉ちゃんの立ちションベン」を見かけた時代から飛びだした口上だったのだ。
 明治末期から大正期にできた公衆便所も男女共用のものがあり、壁に向かって用を足す男性たちと並んで、壁に背中を向けて後ろ向きに放尿する女性の姿が混じっていたという。

 江戸時代の公衆浴場は混浴だったという話はよく聞くが、まさか便所も一緒に並んで使っていたとは、まったく驚いてしまった。
 井口は、そのような時代に生き、アメリカで見つけたブルマも、当時の日本人の習慣に合わせたものに改良していたのだ。

東京オリンピックで日本人が圧倒されたもの

 その後、ブルマはどんどん丈が短くなっていく。しばらくは「ちょうちんブルマ」と呼ばれるカボチャのような形状をしていたようだ。

トンボ学生服TOMBOWサイトより https://www.tombow.gr.jp/uniform_museum/pocket/06.html

 うむ、これなら下腹部のラインが露わにならず、恥ずかしさがない。
 だが、ブルマはさらに短く、もっと小さくなっていき、お尻にピッタリと密着する形状に変わっていく。
 きっかけは、昭和39年の東京オリンピックだ。それまではラジオや新聞など言葉の情報と、わずかな写真で見聞きしていたオリンピックが、はじめてテレビ中継されることになった。
 この時日本人は、ピッチリとしたブルマでアタックする海外の女子バレーボール選手や、レオタードに身を包んで平均台の上でポーズをとる体操選手などに度肝を抜かれたらしい。
 特に、女子体操選手を見て完全に頭がどうかなってしまったようで、当時の新聞記事には「うなじに乱れる金髪、ライトにはえる肌がびっくりするほど白かった」「真っ白い肌、ブロンドの髪、空色のユニフォーム」など、とにかく西洋の女性に悩殺された新聞記者の言葉が綴られていて、なんだか笑ってしまう。今なら即炎上しそうな記述だが、当時は日本全体が動揺していたのだから仕方がない。
 しなやかで美しい体のラインを隠すことなく見せつけながら、自由に力強く競い合う海外の女性選手の姿と、それを堂々と賛美するという世界観は、すっかり日本人を圧倒してしまった。

 その後、繊維の開発など技術も進むとともに、スポーツ振興のための団体がスポーツ用品業者と結びつくなどしたことから、アスリート向けの商品だったピチピチのブルマが、中学生や高校生の推奨品として販売されるようになり、一気に広まる。
 だが、私が高校生になる頃には、写真投稿雑誌などが隆盛を極めていて、女子中高生のブルマ姿を隠し撮りしたものが掲載されていたほか、着用済みのブルマやセーラー服を販売する「ブルセラショップ」が生まれて社会問題となっていた。「セクハラ」という言葉も流行し、公然と性的対象となったものを中高生にはかせるわけにはいかないということで、ブルマはたちまち学校から姿を消した。

 今回、ブルマをめぐる記憶をもとに調べ物を展開することになったが、本当に驚きの連続だった。
 当初は、女性の身体に対する自覚や、男女の視点の違い、性差、そこから垣間見える男尊女卑の世界観を抽出できないかと考え、手探りで本を開いたのだが、まさか「粋な姉ちゃん立ちションベン」に行き当たるとは思わなかった。

 着物に身を包むと、なぜか「楚々とした所作」を心がけるようになるのだが、歩幅は狭いし、袖は邪魔だし、動きが制限されて自由度の低い服装だとばかり思っていた。だが、着物しかなかった時代は、そこらで裾をまくりあげてシャーッとやっていたなんて、ユニクロのストレッチジーンズにスニーカーを履いて軽々歩いている今の女性より、よほど大胆だったんじゃないかと思えてしまう。

 恥じらいとは一体なんなのだろう?
 もちろん明治時代と現代とでは、秩序感覚も衛生観念も違う。だが、猥雑で荒々しい生命力を帯びた時代の女性よりも、自由であるはずの現代の私のほうが、型やイメージに収まりたがる小ささや窮屈さ、足場のない浮遊感を抱えているのかもしれない。ここにも、なにか引っかかるものがある。

 今回は、あえて結論を書かずに終えておきたい。この話をほかの人はどのように受け取るのだろうか。男性の視点も、聞いてみたい。

(参考文献)
井上阿くり「体育之理論及実際」
山本雄二「ブルマーの謎 〈女子の身体〉と戦後日本」
天野正子・桜井厚「『モノと女』の戦後史」
井上章一「パンツが見える。 羞恥心の現代史」
成清弘和「男尊女卑 法の歴史と今後」