兼好法師の本名は「吉田兼好」……じゃなかった、というあの話

古より、権威ある有名人がみんな好き

「うちの親戚にオリンピックで金メダルとった人がいるんだよね」「えっ、すごーい!」「父の兄の長男の奥さんのお兄さんだか弟だか、なんかその辺のつながりなんだけど……」

人は「権威」がすきだ。遥か遠縁で会ったこともないのに、スゴイ人物と一応のつながりがあるとわかると、それだけで盛り上がることができる。たとえなんのつながりもなくても、苗字が同じというだけで「家系図をさかのぼればどこかで出自が重なるかもしれない」と推測して連帯感を持つ人もいる。

私の知人の中野くんは、「僕の先祖は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に違いない」と言う。えっ、中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともに蘇我入鹿(そがのいるか)の首をはね、のちに天智天皇として即位した、あのナカノオオエ? いやいや。「中大兄」は「皇位継承権が2番目(真ん中)の息子」という称号を示す、いわば普通名詞のようなもので、決して「中野オオエさん」じゃないから!

まあ、この程度なら酒の肴(さかな)の笑い話として楽しめるからいいと思う。しかし世の中には、自分の権威を高め、人を騙したり、ビジネスに利用したりするために「家系図」を悪用する人間もいる。

ネットでも「兼好法師」=「吉田兼好」がデフォルトだけど……

「つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」

あまりにも有名な随筆『徒然草』の序段。鎌倉時代後期の南北朝動乱直前に成立した作品とされ、書いたのは、兼好法師だ。生誕年ははっきりとはしないが、鎌倉時代後期から南北朝時代中期にかけてを生きた人物と見られており、「和歌四天王」の一人に数えられ、家集も残している。

この兼好法師、本名をご存じだろうか? 多くの人は「吉田兼好」、ちょっと物知りな人なら「卜部(うらべ)兼好」と答えるかもしれない。私は「吉田兼好」だと思っていた。学校でそう教わったのだったか。いや、テレビの教養番組やクイズ番組なんかで当たり前のようにそう呼ばれているからかもしれない。

ためしにYahoo! JAPANで「兼好法師」と検索してみると、検索結果約429,000件のうち、トップに表示されるのはウィキペディアの「吉田兼好」の項だった。画面右側にはイラストつきでやはり「吉田兼好」の名が登場する。ネットでは自動的に「兼好法師=吉田兼好」と変換されるのだ。検索結果2番目も「吉田兼好」の生い立ちやエピソードを紹介するブログだった。

  

 

ネット検索ではすっかり「兼好法師=吉田兼好」がデフォルトになっているけれど……

  

  

ウィキペディアの記述によれば、兼好は、朝廷の祭祀を司る神祇官・卜部(うらべ)氏の家系で、父親は京都の吉田神社の神職だった卜部兼顕(かねあき)、本名は「卜部兼好(うらべかねよし)」ということになっている。卜部氏は、室町時代に入ってから「吉田」の家号を名乗るようになった。このことと兼好の知名度が合わさって、江戸時代に大きく広まり、「吉田さんとこの兼好さん」=「吉田兼好」と呼ばれるようになったらしい。

兼好の生きた時代は「吉田家」ではなかったのだから、この時点でヘンだと思うのだが、吉田家にとっては「うちのご先祖さま」にそれほど親しみを持たれるのは嬉しいことだっただろう。また、兼好は、後二条天皇の六位蔵人(ろくいのくろうど)となり、従五位下(じゅごいげ)に叙せられ、左兵衛佐(さひょうえのすけ)に昇進したあと、30歳前後で出家し、法名として「兼好」を名乗り、『徒然草』を執筆したとされている。

このウィキペディアの記述は、国文学者の風巻景次郎(かざまき けいじろう)が昭和27年に発表し、その後、『西行と兼好』(角川選書・昭和44年)のなかで、南北朝時代の諸家系図『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』をもとに推定したものがベースとなっている。風巻説は学界の通説ともなり、多くの『徒然草』関連書籍にも同じような解説がなされている。

ところが、平成26年になって、この風巻説はごっそりと覆されてしまう。実は、兼好法師は、卜部兼顕の子でもなければ、「吉田兼好」でもなかったのである。

兼好法師人気にあやかり、自分の家系に取り込んだ吉田さん

国文学者の小川剛生氏が発表した論考『卜部兼好伝批判――「兼好法師」から「吉田兼好」へ』(熊本大学文学部国語国文学会『国語国文学研究』第49号・平成26年)と、『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書・平成29年)によれば、風巻説はなんとほとんどが間違いで、兼好が吉田姓とされたのは、戦国時代の吉田家の当主、吉田兼倶(かねとも)という人物が言い出したペテンでしかなく、「兼好法師=吉田兼好」と証明できるものは存在しないというのだ。

  

  

まず、風巻が「兼好の出自が記された史料」として読み解き、学界でも信じられていたはずの諸家系図『尊卑分脈』そのものが、どうやら吉田兼倶によって捏造(ねつぞう)されたものだったようだ。

『尊卑分脈』刊本以前の写本のほうを見ると、なんと兼好自体が記載されていないという。これまで兼好の父や兄弟とされていた人々も、検証してみると、実際にはなんの血縁もないあかの他人でしかなく、そこには「吉田家の株を上げるためのニセの家系図」が勝手に補入されており、それをそのまま信じ込まされて、現代まで脈々と一般常識化してしまったというのが真実だったのだ。

この吉田兼倶という人物、でっち上げと文書偽造の常習犯だったという。神道の一流派である「吉田神道」の創設者なのだが、今でいう新興宗教の教祖のようなクセのあるキャラクターだったようだ。「唯一神道」「元本宗源神道」と自称し、日本の本来の神々のほかに、儒教、真言密教、道教、陰陽五行説など当時のいろいろな教説を取り入れた教義をつくり上げ、神道界の権威として精力を拡大するべく活動していたようなのだが、同じ卜部氏の系統では、嫡流の平野流に後塵を拝していた。

そこで、当主の兼倶は、次から次へと文書を偽造して、各時代の有名人を「この人も吉田流の門弟だった!」と主張しはじめたのである。被害にあったのは兼好だけではない。「藤原定家の和歌の秘伝は、吉田流の神道の弟子だったことにある!」と主張したのにはじまり、鴨長明、顕昭らスーパー歌人も吉田の門弟だと吹聴。日蓮上人も吉田流の弟子で、日蓮宗が信仰する神々の名は吉田がつけたものだと嘘八百を並びたてて、日蓮宗から抗議を受けている。

さらに、伊勢神宮への対抗心からか、「伊勢の神器が吉田山(吉田神社の鎮座地)に飛来し、降臨した」というようなあり得ないウソを喧伝してひんしゅくを買うなど、かなり芝居がかった勧誘運動も行っていたようだ。

『徒然草』は成立直後は注目されず、兼好に子孫がいなかったことから忘却されていたが、兼好の没後70年ごろに発見されてブームとなってゆき、兼倶が勢力拡大のために四苦八苦していた時期には相当な知名度だったようだ。また、兼好自身が一時期「卜部兼好」と名乗っていた時期もあった。これを知った兼倶は、「おいしいネタだ」と思ったのだろう。「卜部氏=吉田家。卜部兼好=吉田兼好」と結び付け、自身の権威付けに利用するべく、門弟どころか「吉田の家系」として勝手に取り込んで喧伝(けんでん)したのである。

ところが、もともと卜部氏は伊豆、壱岐、安房などに出自があり、各地の武士や職人に散見される姓でもある。吉田家のように神祇官の家系とはなんら関係のない卜部氏も大勢いるわけだ。兼好が「卜部兼好」と名乗っていたからと言って、吉田家に通ずる卜部氏だという証明は一切存在しない。

さらに、「吉田兼好説」によれば、出家前の兼好は、朝廷に仕え、天皇の身辺にいて、公家日記に頻繁に登場するはずの役職であるのに、そのような記述がどこにもないばかりか、実際の兼好は、その時期に京を離れて鎌倉にいたという。この点にも、兼倶が権威を高めるために「うちの兼好さんはすごい役職についておられた!」と吹聴したのではないかという疑いが芽生える。

その後の小川剛生氏の検証によって、兼好が父親の弔いのために家族に宛てた直筆の手紙なども明らかになり、どうやら兼好は「四郎太郎」と名乗っていて、伊勢国の出身と見られ、金沢流北条氏に仕えたのではないかと推測されている。

伊勢国出身か……。三重県出身の私としては、思わず「兼好法師って三重県出身なんやに!」などと兼好法師の“吉田化”と同じ理屈で勝手に自慢したい誘惑にかられる話だが、ここはぐっと冷静になりたい。

兼好法師は、ぜんぜん「吉田兼好」ではなかった。ここまで時代を経て一般化するような壮大なペテンをやってのけた吉田兼倶も、ある意味「スゴイ」のかもしれないが、人気者の名前がペテンに使われるという事例は古今東西あとを絶たず、裏を返せば、それほど人々が「権威」になびきやすいという証左でもあるのだろう。