強権に支配されたい人たちの萌芽

世間の空気のこわばりがすごい。新型コロナウイルスに関して少しでも楽観的な意見を述べようものなら、途端に「けしからん、もっと怖がるべきだ」とばかりに締め付けようとする人が現れるし、身内から感染者が出ようものなら、お詫びしなければならない上に、「魔女狩り」のごとく吊し上げられバッシングを浴びる。

学生の集団感染が発生した京都産業大学には数百件の問い合わせが殺到し、その中には「感染した学生の住所を教えろ」「大学に火をつけるぞ」といった脅迫や「殺すぞ」という殺害予告まであったという。すっかり窮屈な世の中になってしまった。

為政者より先に国民が「人権制限」を求める事態に

政府の後手後手の対応も相まってか、自治体、財界、医療界、マスコミ、タレント、そして反骨精神の塊だと思っていたロックミュージシャンまでが「早く緊急事態宣言を出し、国家が国民の自由を縛って管理するべきだ!」とガンガン突き上げた末に、4月7日、東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県・大阪府・兵庫県・福岡県の7都府県に対して緊急事態宣言が発令された。

巷では、ちょっと前まで声高に「人権尊重」を叫び、独裁色の強い権力を猛批判し、国家による統制を警戒していた人々が、いまはなぜか「強権発動が遅すぎる」「もっと強く統制するべき」「海外のように人の動きを封じないのはなぜだ」などと言って、熱心に「人権制限」を求めている。

「いまはしょうがないよね。宣言を出すのが遅いぐらいだ」と言ってすんなり受け入れている人は多いようだ。

私の連載への感想メールを送って下さった子育て中の女性Sさんから聞いた話だが、彼女の友達はまさにそのタイプである。Sさん自身は、決まっていたパート先が休業になってしまい、経済的な問題を抱えているというが、あるとき友人が「今は店も潰れるけど、さすがにそのうち政府がなにかしてくれるだろうし、コロナが終われば経済爆上がりで、新店舗がどんどんできるはず」と話すのを聞いて、呆れ果てたという。

「経済爆上がりで、新店舗がどんどんできる」ほどの「なにか」を政府がしてくれるというバラ色の未来を、何を根拠に信じているのだろう。現実には大量解雇、派遣切り、倒産が続々と報告されており、それによる自殺者の増加のほうが憂慮される状態だと思うが、あまりにウイルスに対する恐怖が高まりすぎて、「この弱い存在の私たちを、強力なリーダーがなんとかしてくれるはず!」という夢を見てしまうのだろうか。

Sさんは「春節の期間中に中国人観光客の入国を止めなかったのも政府なのに、そこはスルーでいいんだ……」と一人つぶやく。バラ色の未来を夢見る友人は、聞く耳など持たない様子のようだ。

改正新型インフル特措法の中身も成立過程も簡単にスルー

たった3日間の審議の末、もともとあった特措法に文言を付け足して新型コロナウイルスにも使えるものに変え、与野党による賛成多数で3月13日に可決、成立した「改正新型インフルエンザ等対策特別措置法」。現在この法律に基づいて、緊急事態宣言の発令されている地域においてさまざまな自由が制限されている。

「住民への外出自粛要請(第45条)」「休校などの要請・指示(第45条)」「大規模施設の利用停止、イベントの開催制限や中止の要請・指示(第45条)」「臨時の医療施設設置のための土地家屋の強制使用(第49条)」「医薬品や食品など必要な物資の売り渡し要請・収用(第55条)」などだ。

さらっと読めば、「緊急時なんだし、命を守るためには必要なことじゃないの?」と思うかもしれないが、よくよく精査すると「大規模施設の利用停止、イベントの開催制限や中止の要請・指示」などは、かなり問題がある。

第五条に「国民の自由と権利に制限が加えられるときであっても、その制限は当該新型インフルエンザ等対策を実施するため必要最小限のものでなければならない」とは書いてあっても、たとえば「新型コロナウイルス対策のため」という理由を掲げさえすれば、権力が、自分にとって都合の悪い言論や政治に関する集会を中止させる、ということも可能だからだ。

この特措法には、第16条によって「政府対策本部長」となる首相が、「指定公共機関」に対して第20条に基づいて「総合調整」できる権限を持ち、必要な措置を指示できるという規定も盛り込まれている。そして、「指定公共機関」のひとつとして、第2条6項に「日本放送協会」(NHK)の名前がはっきり記載されており、また、民放各局もその対象に含まれると解釈できるような条文になっているのだ。つまり、首相が、解釈次第で日本のすべての放送局の報道に介入することが可能となっているのである。

これらを「いまは大変な時だから」「コロナを封じるためには仕方ないから」「まさか政府がそんな恐ろしいことしないでしょ」と言って流せるほど、私たちは権力を安易に信頼し、身をゆだねられるものだろうか?

自由の制限になぜ敏感でい続けなければいけないのか

ここで、日本国憲法の21条の条文を思い出してみる。

憲法21条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 
 2  
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

憲法上、「表現の自由」は、民主主義社会において、他の人権に比べて「優越的地位」があるとされている。

なぜか? 時の権力者が、自由な情報の流通を阻止して、自分に都合の悪い情報を隠し、都合の良い情報だけが流れるようにしてしまったら、国民は正しい判断ができなくなる。そして、自由闊達な議論や表現ができなければ、民主主義は機能しなくなるからだ。

それなのに「お上にすべてをゆだねていたら、気づかないうちにお上に都合の良い情報しか流れない社会に変質しており、それに気づいた人が広く問題提起するシンポジウムを開こうとしたら、中止させられた」というようなことが、この先あってもおかしくないくらい無防備に、権力を野放し状態にしているのが現在の日本なのである。

しかも、このような制限ができる緊急事態宣言を出すにあたって、国会の事前事後の「承認」は必要なく、「特に緊急の必要がありやむを得ない場合を除き、国会へ事前に報告する」ことで足りるということになっている。「明日からやりますから」で済んでしまっているのだ。

さらに、この「事前報告」も、条文に明記されているわけでもなく、「付帯決議」として付け加えられているだけだ。「付帯決議」とは、その法案を可決するにあたって、条文だけでは不十分だと思われる部分を、「こうあってもらいたい」という国会の意思として付け加えるもので、なんら法的拘束力のない、いわば「脚注」とか「留意事項」のようなものだ。

法的拘束力がないのだから、やるだけやってしまってから「もちろんつねづね付帯決議を尊重してきましたが、特に緊急の必要があり、やむを得ない状態だと判断したので報告が遅れました。これからは付帯決議の尊重につとめます」と言い訳すればすり抜けられてしまう。

今回の緊急事態宣言は「5月6日まで」として発令されたが、法律上、上限は2年までとなっており、さらに1年延長することもできる。せめて、延長する場合は国会で「事前承認」のための検証と審議を行うべきで、そのための時間ぐらいとれるだろうと思うのだが、それも必要ないということになっている。すさまじいザル法なのである。

国民(主権者)の意思を代表する国会も、雑で鈍感

このようなザル法が、なぜ賛成多数であっさり成立してしまったのか? 成立させるにしても、野党からは問題点の指摘がもっと行われ、きちんと権力に縛りをかけた条文案を出すなどの動きがあって然るべきだったと思うが、なぜ行われなかったのか?

実は、もともとこの特措法は、平成24年、民主党政権時代に作られて成立したものであるということが絡んでいたようだ。法律を作った当の旧民主党系の議員からは、改正案に対する批判の声が起きず、最大野党であるはずの立憲民主党内では、議員同士の議論もほとんどなかったという。

自分たちが作ったものだから絶対間違いないというプライドか、先輩議員が作った法律に歯向かうのはマズイという私心か、それとも「こんな時だから」と深く考えなかったのか、そもそも条文を読んでいないのか、読んでも危険性が読み取れないのか、それぞれの議員たちの頭の中はわからない。

いずれにせよ「立憲民主党」と党名を掲げながら、憲法に立脚して国家権力の暴走を阻止する仕組みを定める「立憲主義」も、国民が自らの手で国の在り方を決める「民主主義」も放棄してしまったのだから、「看板に偽りあり」ということになる。

しかも、特措法改正案は、自民党と立憲民主党の国会対策委員長の合意によって「衆院本会議で採決を行う」ということに取りまとめられ、あっという間に成立してしまった。

2020年3月5日「朝日新聞デジタル」の記事

国会対策委員会とは、国会の運営について他党と連絡をとりあって駆け引きを行ったり、党内の議員に対して党議を徹底するために設けられている各政党の組織だが、特になにか責任を負う立場というわけでもなく、国民から見れば「その党における政治家の一ポスト」に過ぎない。しかも、他党との交渉は水面下で行われるため、今回の合意もどんな話し合いをしたのかはわからない。当然、議事録もないのだ。

立憲民主党の議員たちは、議論もせず、聞かされず、「賛成することになったから、みんな賛成するように」という上司からの指示にただ従っただけ。自分が法案に賛成したことに対して、責任を負っているという意識があるのかどうかもわからない。

この一連の流れを「国対にはじまり、国対に終わった」と批判し、立憲民主党としての採択に「造反」した山尾志桜里議員は、その後、離党。離党表明会見では、異論を煙たがり、自由な議論のない党内の空気について語り、「国会議員の本分は、意見の違う相手とも議論して、そのプロセスを国民と共有し、結論には責任をもって賛否を示すこと」「立憲民主党に所属しながら、議員としての本分を果たすことは難しいと判断した」と述べた。

例外状況にこそ、権力はその本性を表す

ドイツの憲法学者カール・シュミットの著した『政治神学』の冒頭に「主権者とは、例外状況に関して決定を下す者をいう」という有名な一節がある。いざ通常時でなくなった時に、誰がどんな決断を下すのかというところにこそ、権力の本質が現れるという意味の言葉だ。

通常時は、いろんな権利を、なにもしなくてもこの世では最初から当たり前のように享受されているもののように感じて過ごしている。けれども、権力者があるとき「法」をかざして「この社会は私が支配する」と言い出した時、「当たり前ではなかったんだ」ということになる。突然「神様」が出現して「この世界は私が創ったんだよね。だからまた創り変えちゃってもいいんだよね」と言われてしまったかのように。

「そんなことあるわけないと思っている時」ばかりが続くと思っていると、法律とはなにか、権力とはなにかということにますます鈍感になり、その本質がわからなくなってしまうのだ。

「コロナ禍という非常事態」の熱に浮かされるように、深く議論されずに成立してしまったザル法が、この先どんな本性を孕んだ、どんな権力によって利用されるかわからない……そういう意識を持って、今後忘れずに再検証を行うことが、「コロナ後の世界」を自分たちの手で守ることになるのではないだろうか。