『泉美木蘭のトンデモ見聞録』第325回より
空港というものは、たいてい人里離れた広大な土地を買収したり、海の上に埋め立て地を作ったりして建設されるものだが、福岡空港は、博多駅から5分、中心地である天神駅から10分という超都市型空港だ。
はじめて羽田空港から福岡空港に降り立ったときは、中心部への近さに驚き、なんて便利な街なんだと思った。だが、便利と引き換えに、周辺に住んでいる人は、1~2分おきに離発着の騒音を聞き続けている。
この騒音対策のために、福岡空港には「門限」がある。原則、夜10時までに着陸できない飛行機は、Uターンして元の空港に帰るか、別の空港を探さなければならないのだ。
特に、2023年は「門限Uターン」のニュースが多く、マニラから飛んできた飛行機が、そのままマニラへ引き返すというわけのわからない珍事まで起きた。
コロナ禍で、空港はどこもスタッフを減らして運営してきたが、昨年は急激に旅客数が戻り始めたために対応が間に合わなくなり、保安検査場に大行列ができるなど各地で問題を抱えてしまった。
飛行機の発着にも影響を及ぼしており、福岡の場合は、上空で着陸許可を待つ飛行機がぞろぞろ旋回するという「着陸渋滞」が頻発したり、地上で到着機が混雑してなかなか搭乗口につけない問題も増えたりしているらしい。
福岡空港は、1944年2月、戦争のさなかに旧陸軍の飛行場として、急遽建設されることになった。1945年5月に「席田飛行場」として完成するが、8月には敗戦、米軍に接収されて「米軍板付基地」となり、周辺の山間部も米軍に接収されて、射撃場や弾薬庫が作られた。
以来、米軍が1957年ごろまで空港周辺の土地を5回に渡って接収していき、現在の福岡空港とほぼ同じ大きさに拡張された。
1945年撮影の「席田飛行場」(画像)
米軍時代の管制塔(画像)
1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、板付基地は偵察や出撃の拠点となり、昼夜を問わず、多くの米軍機が飛び立つことになる。「福岡市民の頭上を1時間に50機の戦闘機が飛んだ」という話も残っている。
ところが、私が当初、福岡の地元紹介を調べはじめたときは、朝鮮戦争当時について「朝鮮戦争特需と言われる好景気になり、製造業や石炭産業が伸びた」ということは紹介されていても、現在の福岡空港が米軍基地であり、戦闘機がバンバン飛んでいたという事実は見かけなかった。
たまたま、ネットで見つけて読んだ空港の歴史にそのことが書かれていて、びっくりしたのだが、私のまわりの30代~40代後半の福岡県民も、誰もその事実を知らなかった。
米軍基地だったことを知らないのだから、米軍機が九州大学に墜落したことも、もちろん知らない。
1968年6月2日夜10時45分、ベトナム戦争の激化に伴って、重要拠点となっていた板付基地から発進した米軍機が、福岡市東区にあった九州大学キャンパス内の「大型計算機センター」に激突。6階建ての建物の5階部分に頭から突っ込んで、炎上した。(画像)
米軍機が墜落した大型計算機センター(1968年)(画像)
墜落したのは日曜日の夜で、建物は建設中でもあったため、人身被害はなかったが、墜落1時間半後の深夜1時には、事故現場に多数の学生が集まっていたという。
この時、米兵たちがカービン銃を手に、いきなり無断で構内に踏み入ってきたために、学生たちは激昂。軍用車を取り囲んで押し問答になった。
そのため、九大の水野高明総長が、米兵の司令官に対して、大学に陳謝に来るよう約束させ、学生たちに米兵を解放するよう説得したが、学生たちは応じず、機動隊が実力で排除してようやく米兵が解放されるという一幕があった。
構内に入れなくなった米軍は、この日、九大に対して、早急に事故機を引き渡すよう求めてきたが、水野総長は、墜落現場で行われていた議論の場におもむき、板付基地の撤退を求める声明文を読み上げた。
同日、在日米軍の司令官らが陳謝しにきたが、水野総長は、基地撤退を読み上げた声明文を手渡し、当面の離着陸コースを変更しろと要求。
米軍機墜落に憤怒していた九大学生たちと福岡市民たちも燃え上がり、板付基地撤去・返還運動へと発展した。実は、九大への墜落だけでなく、板付基地周辺では米軍機のトラブルが多発しており、約20年間で109件の事故が発生、民間人20人が犠牲になっていたのだ。
1971年には当時のニクソン大統領の軍縮政策と、福岡の市民運動とが相まって基地の返還が決定。翌72年3月には板付基地は日本に返還され、「福岡空港」となった。
福岡県にとってはかなり大きな出来事だが、そもそも米軍基地だったことが知られていないので、当時学生運動に参加していた「左翼」と呼ばれる世代の人しか詳しく記憶する人はいないようだ。
調べていて驚いたのは、私が読んだ板付基地に関する別の資料に「この返還運動は現在も続いている」と記載されていたことだった。
現在も?
不思議に思ってさらに調べると、空港の施設内に現在も米軍の専用地が残されており、福岡県と福岡市は今も返還を求めているということを知った。(画像)
驚いて空港へ行ってみると、福岡空港の国際線ターミナルの出入り口から見える位置に、本当に「AMC AIR TERMINAL」(米航空機動軍団)という看板を掲げた米軍の建物があった。(画像)
警備員にじろじろ見られてあまり近づけなかった
「日米地位協定」により、福岡空港の滑走路と誘導路、駐機場は、米軍と共用することと指定されていたのだ。
2021年は3日に1回のペース、2022年は5日に1回のペースで米軍機が飛来していたという。
つまり、板付基地は、正確な意味で日本に「返還」されたのではなかった。建物を縮小して、いつでも全面的に使用できるように、ひっそりと運用されていただけなのだ。
過去には、朝鮮半島有事を想定して、在韓米軍の家族を福岡空港に輸送する訓練も行われている。つまり、福岡空港は、朝鮮半島有事における重要拠点として認識されており、米軍としては手放すわけにいかないと考えてきたということだ。
だが、この件について意識している福岡県民があまりいないという状況で、しかも、2021年には、福岡空港の滑走路増設工事に伴って、米軍専用地も移設することになり、その移設費用30億円をすべて日本の税金で負担、うち10億円は福岡県と福岡市が負担している。福岡県と福岡市は、基地返還を求めているはずが、米軍基地移設のためのカネを捻出してしまうという壮大な矛盾を抱えているのだ。
さらに調べると、米空軍の基本原則をまとめた「AGILE COMBAT EMPLOYMENT」(迅速機敏な戦力展開)という戦略概念があることを知った。(画像)
この文書では、世界中に戦力を展開していた米空軍が、冷戦終結以来、その拠点を大幅に縮小してきた一方で、敵軍の情報・偵察・全領域の長距離射撃技術が進歩しているという事実に触れ、「ソビエトが冷戦時代の欧州の基地を危険にさらしたように、新しい兵器システムは、以前は聖域と考えられていた空軍基地を危険にさらしている」と書いている。
さらに、米国の財政的な問題で、恒久的な空軍基地の設置は制限されているため、いかに敵の照準を難しくして、ジレンマをもたらすかが重要だとし、さまざまな機動方式や戦闘配置、物流について言及したあと、基地を分散することについて述べ、次のような事前の開発が必要だとしている。
■前線作戦拠点として、パートナー(同盟国)の軍および民間飛行場を利用する。
もちろん福岡空港のみに限らない話だが、福岡県の場合は、市街地ど真ん中にある空港が、前線作戦拠点として機能するということで、それは「全領域の長距離射撃」に狙われることも想定のうちということだ。
日本人が「せんそうはんたい」を言いながらおろおろとして、気が重くなるので忘れてしまおう……という間にも、身近な場所は攻撃対象に入っており、水面下でどんどん米国の作戦が遂行されていますよということ。
ちなみに、民間空港への米軍機着陸回数は、全国で毎年300回超あり、そのうち7割は九州の空港である。福岡空港の次に利用されているのは、長崎空港、奄美空港、熊本空港などだ。
動画を撮影したときは、ギャラリーとして協力してくれた福岡の人たちが、誰も米軍基地のことを知らなかったので、「有事の際は米軍がばんばん使いますよ」と言って以降、完全に凍りついてシーンとなってしまい、「失敗したかも」と参った。
でもそれが、一般的な日本人の感覚なのだと思う。とくに福岡はそんな場合じゃないので、国防について一家言あるぞ! という人が、ぜひ増えてほしい。
もうすぐ福岡2年生になる私だが、20年間暮らした東京でも、出身地の三重でも、知らずに過ごしていた重大な事実がきっとあっただろう。身近にある現実について改めて知りたくなるきっかけになればと思う。