コロナ報道の変わらない煽り芸、そこに加わる差別意識

東京都は連日、新型コロナ感染者が100人超え、200人超えと大騒ぎになっている。新聞には「過去最多更新」という見出しが躍り、テレビのニュース番組では「今年4月のピーク時の感染者数を超えた」とアナウンサーが緊迫感いっぱいの表情で報じているが、ウイルスやその対策がまったくわからない状態だった2月、3月とは違うのだし、すこし落ち着いてもらいたい。

4月時点では、PCR検査を受けるにも「37.5度以上の発熱が4日以上」などの条件があり、検査数そのものが一日300件程度、多くても500件程度に絞られていたのだ。現在のように連日3000件以上、積極的に検査した結果と比較して、視聴者に感染者の「恐怖」だけを数ヶ月前と同じパターンで煽るのはあまりに安易だろう。

東京都では特に、新宿歌舞伎町のホストクラブ関係者などに対して積極的な検査が行われていることもあり、毎日のように20代の感染者が数多く発見されている。「新宿、夜の街」と、西村大臣や小池都知事の発言をそのまま垂れ流し、連日さも危険地帯かのように報じられているが、実際にはほとんどが無症状か、軽微な症状だという。

毎年、新型コロナよりもはるかに多い10,000人の死者を出す季節性インフルエンザでも、無症状の感染者は大勢いるそうだが、無症状ならばその人は「健康」で、普通に社会生活を送っていた。だが、新型コロナだとそれが許されない。さらに水商売となると白い目で見られ、公然と「近寄るな」と言われてしまう。世田谷区にも中野区にも感染者はいるのに、はっきり言って職業差別だろう。

「夜の街は危険」という画一的な言葉に包んで済ませてしまうその中には、働けるのにその機会を奪われたり、失業・廃業させられたり、家族を抱えて路頭に迷わされたり、学費や生活費を稼がねばならないのに、その糧を奪われたりしている人々がいるのだ。

また、「夜の街から広がって、高齢者に感染したら大変なことになる」という言い方にも偽善を感じる。もともと日本社会は、高齢者をめぐるシビアな現実に苛まれていたはずだ。介護老人施設に入るにも、多くの人が、誰かが先に死んで部屋が空くのをひっそりと待っている。そんな現実を無視して、新型コロナの時だけは、まるで高齢者をダシにするかのような「耳ざわり」を重視した物言いをする。

いずれにせよ、「夜の街は危険」と報道でくり返される言葉には、他人の人生に対するとてつもない無神経さが同居しているのではないかと感じるのだ。

東京都のデータによれば、7月14日現在、入院679人、宿泊療養104人、自宅療養273人、入院・療養等調整中が336人。そのうち重症者は7人だ。ほとんどの人が無症状か軽微な症状であるのに、679人もが病院のベッドを占領しているとは衝撃的な話でもある。

新型コロナは現在、「感染症法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)」の「指定感染症」に指定されているため、同法第19条に従って隔離入院するということらしいが、病院のほうは、新型コロナ患者の受け入れが原因で病床数を減らさなければならず、手術も健康診断も延期されて、経営は逼迫している。すでに医療者への給与やボーナスのカットが相次いでいるという悲惨な状況だ。それでも、今後さらにPCR検査数を増やして、わざわざ無症状の感染者まで見つけ出すそうだが、こんなアンバランスな隔離政策を続けていて大丈夫なのだろうか。

無意識に差別意識を植え付ける「隔離」という言葉

そもそも隔離は、その人の自由を奪うことだ。つまり、立派な人権侵害でもあると思うのだが、ひとたび「新型コロナ感染」となると、そんなことは一切おかまいなしで追及すらされなくなっている。そこが怖い。

特にテレビには、隔離政策を推進する人物が次々と登場する。テレビ朝日系列『羽鳥慎一モーニングショー』のレギュラーコメンテーター・玉川徹氏は、「攻めの検査で無症状の感染者を見つけ、隔離するべき」「工夫すれば、中国・武漢がやったように住民全員検査をすることもできる」と、4月ごろから現在までほぼ毎回発言しており、中国の人権無視の国策に賛意を示しつづけている。

各局ひっぱりだこの岡田晴恵白鷗大学教授は「感染者と非感染者を分けて、感染者を隔離し、非感染者は経済活動を続ける。それが21世紀型の感染症対策」と幾度となく発言。

ほかにも広島県の湯崎英彦知事をはじめとする多くの知事や、新型コロナに関する政府の諮問委員会メンバーでもある経済学者の小林慶一郎氏、ノーベル生理学・医学賞受賞者の山中伸弥京都大学教授、日本共産党の志位和夫委員長などが強く「隔離」を訴えており、「隔離する方が経済的メリットは大きい」とか、「オリンピックをやるなら、無症状感染者をコントロールできる国になっていなければ」「PCR検査数が少ない日本は先進国とは言えない」などの発言が幾度となく聞こえている。

だが、どの人も、あまりに恐ろしいことを当たり前のように言いすぎではないかと思う。ここで語られている「隔離」とは、感染者の「治療」ではなく、「感染者を排除して、健康な人間だけの安全な社会にしよう」という目的が強調されているからだ。

明らかに重症、中等症の症状を発症している人ならばまだしも、本人になんの自覚症状もなく、健康に暮らしている人にまで検査を行い、陽性ならば「隔離」する。しかも、新型コロナのPCR検査は、一般的には感度が70%とされ、陰性なのに陽性反応が出る場合もあるし、陽性であっても感染力のないウイルスの残骸に反応しただけという場合もあるという。

それにも関わらず、このような「隔離」を当然とする考え方は、感染者に対する差別や偏見を助長してしまうだろう。日本にはすでにその悪例がある。ハンセン病(旧らい病)患者の隔離と差別の歴史だ。

ハンセン病は、らい菌の感染によって発病するが、他人への感染力は非常に弱く、治療法もあり恐れる病気ではない。ただ、現在よりも栄養状態や衛生環境が悪かった時代は「忌まわしい不治の病」として恐れられていた。近世から近代にかけては、「遺伝病」という考え方が広まり、発症した人は家族に迷惑を及ぼすとされ、家出・放浪生活を送る人が少なくなかったという。

明治時代になると、諸外国への面目から、文明国として患者を放置しておくことは「国辱」以外のなにものでもないという考えが強まった。「非常に強い感染性があり、恐ろしい病気」「不治の病」という根拠のない恐怖が喧伝されて、1907年「癩予防ニ関スル件」、1931年「らい予防法」などの法律が生まれ、すべての患者をあぶりだし、消毒・隔離するという道へと突き進んでいく。

この過程で起きたのが、官民一体で巻き起こった「無らい県運動」だ。ハンセン病を根絶できないようでは真の文明国ではないとされていた空気のなか、1940年、厚生省(当時)から「患者収容の完全を期せんがためには、いわゆる無らい運動の徹底を必要なりと認む」という指示が出され、各県は競うようにして「患者狩り」を行い、療養所へと隔離しはじめた。

学校現場、地域住民なども、現在の「自粛警察」や「マスク警察」のごとく通報に協力し、もともと世間から離れて、神社や寺に身を寄せ合って暮らしていた患者たちも吊し上げられていく。

その様子は新聞で「境内の癩患者を一掃す」「森都に巣喰ふ/癩患者を一掃」(1940年7月9日・九州日日新聞)などと報じられている。この記事には、「都会清爽美はますます向上され衛生上にも非常によく、また患者自身のためにも世上何等はばかることなく治療に専念することが出来、精神的にも環境的にも亦治療的にも優遇を受けることが出来るだろう」という、いま読めば背筋の寒くなる談話も掲載されている。

ハンセン病の「無らい県運動」の二の舞を、無意識にしでかしそうな私たち

こうして、ハンセン病に対してますます「恐ろしい伝染病」という間違った認識と、患者に対する偏見・差別意識が植え付けられ、忌避感が定着していった。患者のいた場所や、歩いてゆく後をつけて、見せしめのように執拗に消毒するなどの行為もあったという。

結果、多くの患者は療養所以外に居場所を失ってしまう。療養所に入らなかった人々もいたが、自身が患者であることを隠しつづけ、差別に怯える暮らしを強いられた。その苦痛のすさまじさは数々の語り部や著作によって残されているし、ネットでも知ることができる。

そして、このように隔離された人々の人生を踏みつけた社会では「感染者はいない」ものとされていたのだ。

現在も全国に13か所の国立ハンセン病療養所があり、そこで暮らしている人々がいる。多くはすでに治癒しているが、安心して郷里に帰ることができないまま高齢となり、入所者の平均年齢が87歳を超える施設もあるようだ。療養所のなかには、火葬場や納骨堂もあり、死してなお隔離された施設のなかに眠る人、それも偽名のままである人も少なくないという。

この差別の元凶でもあった「らい予防法」が廃止されたのは、1996年。たった24年前のことだ。しかも、この法律が違憲であり、国に深刻な人権侵害の責任があると明らかにされたのは2001年になってからである。

「オリンピック」「中国」「先進国のPCR検査数」などを引き合いに出して、新型コロナの感染者隔離を推進する人々は、諸外国の目を気にしてハンセン病患者の存在を「国辱」と見なした過去の日本人となにが違うのだろう。「感染者と非感染者を分けるのが21世紀型の感染症対策」という言葉は、「ハンセン病を根絶できないようでは真の文明国ではない」として患者狩りを推進した当時の発言と同根ではないだろうか。

「らい予防法」廃止後、1998年に施行された「感染症法」の前文には、過去の歴史を踏まえて次のように書かれている。

我が国においては、過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことが必要である。

このような感染症をめぐる状況の変化や感染症の患者等が置かれてきた状況を踏まえ、感染症の患者等の人権を尊重しつつ、これらの者に対する良質かつ適切な医療の提供を確保し、感染症に迅速かつ適確に対応することが求められている。

新型コロナの感染者に対する「人権の尊重」という概念は、どこへ消え失せてしまったのだろうか。「官民メディア一体」で感染者を次々と隔離して良しとされているこの現状、あまたの犠牲の上に結晶された貴重な教訓を、いま振り返らなければならないと思う。