■ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」のこと
日本の教科書で勉強すると、フランス革命は「悪い王様を倒して、自由と権利をつかんだ。なんかすごいやん」という印象にしかならない。
加えて、フランスのお洒落なイメージに惑わされたり、フランス料理のスプーンとフォークの多さに動揺させられたりして、「フランスすごい。フランス革命かっこいい」という感覚に昇華。そのまま高学歴の道を歩み、気づけば「おフランスざんす病」を発症してしまう人もいる。

ウジェーヌ・ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」(1830年 ルーヴル美術館所蔵)
私の知人は、中学生時代、教科書に掲載されていたウジェーヌ・ドラクロワの絵画「民衆を導く自由の女神」を見て、
「女の人がリーダーになって、革命戦争を戦ったのか。服をはがされて、おっぱい丸出しになっても、怯まずに旗を振り続けたすごい人だ。だから、王様を倒して自由と権利を勝ち取れたんだ。すげえええ!」
と思ったらしい。
おっぱい、効果テキメンである。
絵をよく見ると、足元には身ぐるみ剥がれた屍が転がっている。この凄惨な戦場におっぱい丸出しの女の人がいて、トリコロールの派手な旗を振りながら、屍を踏み越えて進んでいたら、なんというか、ものすごく危ない。
そんな人、いるわけない。この女性は、「自由」を擬人化したフランス共和国の象徴「女神マリアンヌ」を、想像で描いたものなのだ。
当時は、キリスト教禁欲主義の影響で、裸体を描くこと=猥褻な悪とされており、例外として「伝統的に描かれてきた神の姿」だけが許容されていた。
つまり、おっぱい丸出し=「人間ではなく、神である。だから、おっぱいは決してエロくないのである」と解釈する暗黙の了解があったのだ。
この絵が脚光を浴びるまで、フランスの絵画は、古代ギリシア・ローマの神話などをモチーフにした「むかーしむかしの古典的な歴史画」を丁寧に描くことが主流だった。
そんな美術界に退屈していたドラクロワは、「描くなら、今起きている出来事デショ!」と反旗を翻し、それまで許されていなかった躍動感あふれる大胆なタッチでこの絵を描き上げた。
発表直後は、美術界の重鎮たちからバッシングを浴びたが、結局、人気が出て、以降はドラクロワが多くの建築物の装飾を受注するようになり、大画家として君臨してしまう。
つまり、フランス革命期において、美術界にも革命が起こされていた。それが、この作品なのだ。
そういう意味もあって、美術史上の重要な作品とされるのだが、あまりにも有名になりすぎて、こまかい解説もされないので、特に男子中学生には、間違ったイメージが膨らんでしまうのかもしれない。
女神が象徴として描かれているのに、「フランス人権宣言」には女性が含まれていなかった、ズボンをはくことさえ禁止されていたという現実も、セットで教えたほうがよいのではないだろうか。
ドラクロワは、遠い過去ではなく「今起きていること」を動きのある絵で描き出そうとした。ただし、この絵は「ジャーナリズム」として見ることはできない。
そもそも女神マリアンヌは実在しない。そして、女神に続いて先陣を切る人のなかに、ハットにスカーフにジャケットコートというやたらキメキメのいで立ちでライフルを握る紳士が描かれている。

自分をすごく目立つ位置に描き込んじゃったドラクロワさん(32歳)
足元に死体が転がる戦闘の最前線に、このファッションをキープ?
かなり不自然だが、これはドラクロワ本人だ。
そして、彼はずっとアトリエで絵を描いていて、戦闘には参加していなかった(本人談)。人づてに話を聞いて強く感動し、戦場の様子を想像して、自分も絵筆で革命に参加したいという思いを持ちながらこの絵を描いた――つまり「革命賛美画」という表現が正しいのではないだろうか。
それが、後世にまで、とてつもない威力を発揮し続けているのだから凄い。
ちなみにこの絵、「1789年のバスチーユ監獄襲撃によって勃発し、ルイ16世を処刑して、人権宣言を樹立するまでの革命」を描いたように思われがちだが、実際には、その41年後、1830年の「7月革命」を描いたものだ。英雄ナポレオンもとっくに死んだ後のことである。
この「7月革命」で成立したのは、立憲君主政を採用したルイ・フィリップが王位に就く「7月王政」であり、共和政ではない。
■フランス革命、平民はみな一枚岩…じゃなかった
フランス革命の概要として習うのは、次のような内容だろう。
絶対王政による支配に苦しむ平民たちが、「自由・平等・同胞愛(友愛)」をスローガンとし、特権階級だった貴族や聖職者たちと武力闘争を行った。
だが、実際には、平民すべてが一枚岩だったわけではない。
1789年7月にバスチーユ監獄が襲撃され、革命が勃発すると、無政府状態に乗じた各地の農民らが、今こそ領主に反乱してやるとばかりに大暴れした。
このとき、多くの貴族が亡命したことは知られているが、実際には、農民やブルジョワたちもイギリスやスペインに逃れている。国内がヤバいことになっているのだから、当然だろう。
この騒乱は、人々に恐怖を与える効果を盛大に発揮。たちまちフランス全土が恐怖とパニックに陥った。そして、恐怖に煽られた人々は、「やられる前にやっちまえ」の精神状態に入り込み、あちこちで虐殺をはじめるのだ。
革命政府の方針で、次々と「反革命容疑者」を逮捕して牢獄に押し込んでいくなか、1792年9月、フランス革命に干渉するプロイセン王国との戦況が悪化。「パリ陥落か!?」という危機的状況に陥った。パリでは対抗するために義勇兵が募集されていたが、そんな中、こんなウワサが流れた。
「牢獄のなかで反革命の陰謀が企てられているらしい」
「義勇兵が出兵した後、反革命派たちがパリに残った家族を虐殺する」
関東大震災の動揺のなか、自警団が結成されているときに、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というウワサが流れた話にとても似ている。
そして、この状態のパリに、革命政府の大臣がやってきて、義勇軍の士気を高めるために言った「勝利のためには大胆なれ、さらに大胆なれ、常に大胆なれ!」という演説が火をつけた。
人々が暴徒と化し、大胆すぎる「反革命派狩り」がはじまったのだ。
パリの群衆は、修道院や牢獄にいた反革命派を手当たり次第に引きずり出しては、集団リンチを加えて虐殺していく。犠牲者のなかには、マリー・アントワネットの女官長であり親友でもあったランバル公妃もいた。

ランバル公妃マリー・ルイーズ(あれっ…で、でてる?)
ランバル公妃を殺害した暴徒らは、頭部を切り落として槍の先に突き刺し、マリー・アントワネットが幽閉されている窓に掲げて、見せつけたという。
虐殺は4日間続き、被害者は、マリー・アントワネットが幽閉されていたコンシェルジュリーで300人、アベイ牢獄で200人、ラフォルス牢獄で180人、サン・フィルマン神学校で75人……等々わかっているだけでも1300人。その中には子供も含まれていた。
しかもこれは前哨戦で、「望ましくない人物は排除するのが合理的」という恐怖政治に突き進み、今度はギロチン地獄へと突入していく。
それまで処刑方法にも身分の差があり、貴族は斬首刑、平民は縛り首と決まっていたのだが、「貴族の特権である斬首刑を、市民も平等に受ける権利がある」という理屈から、連日5~60人もの人々がギロチンにかけられることになったのだ。
連日60人。朝9時から夕方5時まで昼休憩なしにギロチンを動かしても、8分に1人の頭が転がる計算になる。これは忙しすぎる。
実際、ほとんど惰性で行われる状態だったという。
しかも、ギロチン=「平民の権利」となったから、犠牲者は、貴族よりも職人や商店主のほうが多かった。この時、革命政府の実権を握っていたロベスピエールは、もともと死刑廃止法案を提案していた人物なのだが、するっと「ギロチン平等」の革命理念に賛同したようだ……。

死刑廃止論者だったはずのロベスピエール。革命家だけど貴族的ストッキングを愛用中。
■虐殺を自慢しはじめた革命家たち
虐殺はパリだけで行われたわけではない。
地方の農民たちのなかでは、カトリック信仰が強かったこともあり、革命政府の人間たちが、より強力な抑圧を行っていた。
この頃、地方都市に派遣されて虐殺を指揮した政治家たちは、競うようにその成果を自慢している。発言を並べてみよう。
●スタニスラス・フレロン
「1日に200人の首を斬り落とした」
「すでに800人の住民が銃殺された。共和国はそれにふさわしいやり方で復讐をとげたのだ」
●リュシアン・ボナパルト
「年齢も性別も問わなかった」
「共和国の大砲で死ななかった者どもは、自由の剣と平等の銃剣でこま切れにしてやった」
●コロー・デルボワ
「1684人をギロチン刑もしくは銃殺刑にした」
●ランベール・タリアン
「頭の凸凹をならして背の高さを等しくし、財布に流血させて金をしぼりとることに努めた」
ほかにも、平野に若者60人を並べて大砲で処刑したとか、町の音楽隊が革命歌『サ・イラ』を奏でるなかで斬首を行ったとか、常軌を逸した自慢話が残されている。
革命派と反革命派の対立が激しかった地方では、ギロチンも半狂乱状態で行われており、その犠牲者の31%は職人や労働者、28%は農民で、貴族は8%程度だったというから驚く。
フランス革命には、「俺たちの考えに賛同しないやつは同胞と見なさず、問答無用で殺す」という現実があったのだ。
なかでも大きな事件は、フランス西部のヴァンデ地方で起きた、農民の反乱に対する粛清だ。

革命政府軍(左)と農民たちの軍事組織(右)が戦った「ヴァンデの反乱」
ヴァンデの反乱農民は、「カトリック王党軍」と名乗る反革命軍事組織を作って抵抗していた。やがて、革命政府の拠点都市ナントを攻撃しはじめたのだが、返り討ちにされてしまう。
革命政府は、これを口実に「ヴァンデの絶滅」を掲げた法令を制定。
革命政府軍に対して、ヴァンデ地方全体を組織的に破壊し、すべてに火を放ち、老若男女問わず殺戮するよう命じたのだ。

ヴァンデの農民たちがナントの野原で大量射殺される様子(1793)
特に子供と女性は殺戮の対象とされ、都合によっては政府軍の兵士もろとも殺してよいから、とにかく「反革命都市」の人間は1人残さずやれというやり方だった。
家という家に火がつけられ、発見された住民は喉を切られたり、垣根に並べられて銃殺されたりした。女性の身体に火薬を詰め込んで火をつけた、赤ん坊を生きたままパン焼きかまどに放り込んだ等々、残忍極まる報告もある。
積み上がった死体から伝染病が発生すると、もっと合理的に始末したいと考えるようになり、住民たちを川に集め、衣服をはぎ取って穴の開いた船に詰め込み、甲板を釘付けして船を沈めた。もちろん女子供も容赦しなかった。
この溺死刑を指示したのは、革命裁判所を創設した議員バティスト・カリエという人物で、カリエは、この処刑を「垂直的追放」と名付けている。

川に追い立てられる4人家族。小さな子供がいる。画面奥の川では溺死刑が行われている。
カリエは、裸にした若い女と、老いた男とをペアにして縄で縛り付け、ボートの上で晒し者にしたあと、サーベルで脅して川に投げ込み溺死させる「共和国の結婚」という処刑までやっていた。

もはや革命軍の娯楽のための処刑
これらの「大虐殺」と呼ぶしかない殺戮のあと、ヴァンデの反乱を指揮した将軍は、こう報告している。
●フランソワ・ウェスターマン将軍
「ヴァンデはもう存在しない。女子供もろとも、我々の自由の剣のもとに死んだ。私は彼らをサヴネの沼地と森に葬った。子供たちは馬で踏みつぶし、女たちは虐殺したから、もう山賊が生まれることもない。囚人を1人でも残したと咎められるようなことはしていない。すべて処分した」
これも立派な「フランス革命」である。
中世ヨーロッパの「動物虐待ブラッドスポーツ」どころの話ではないし、フランス人の蛮行を知って、「ロンドンの動物虐待、やめさせたほうがええんちゃう?」と思うようになったイギリス人の気持ちもわかる気がしてくる。
どこが「自由」なのかさっぱり理解できない世界だが、教科書には、ドラクロワの名画「民衆を導く自由の女神」ばかりが大きく掲載されて、すっかりイメージが出来上がってしまった。
だが、もっと様々な場面を多様な視点から描いた「フランス革命の絵」がたくさん存在するのだ。ぜひ知って欲しい。
見て気分が悪くなったら、幻想と一緒にセーヌ川に沈めて弔おう。
(2024.9.23連載稿より)