「洋服」を着ることが一般的な今の時代、男性よりも女性のファッションのほうが遥かに華やかで、多種多様な色やデザインが楽しまれている。
デパートを眺めると、男性の売り場にもロックスタイルの服はあるが、女性にも革ジャンやダメージジーンズなど同じものがあり、総じて女性のほうが服装選びに自由があるように思える。
ところが、「洋服」の歴史をさかのぼると、面白いことに男女が逆転していた時期がある。
女性よりも男性のほうが着飾ることに熱心だった時代があり、女性には「ズボンの着用」を法で禁止していた国まであるのだ。ファッションの都、フランス・パリである。
フランスは、革命前後で服飾ががらりと変貌した。
15世紀~ 誇張して強く見せる「スペイン貴族風」
古代ギリシアでは、男性はスカートのように腰に布を巻き付け、女性はロングワンピースのような服を着ていた。そこから羊毛、木綿、絹などの織物や、染め、刺繍、ボタンなどの発明と交易があり、西洋の王侯貴族のなかで華やかに発展していく。
15~16世紀のフランス宮廷では、スペイン貴族風のファッションが流行していた。とにかく豪勢で重厚な刺繍や、金銀の飾り糸、羽根飾りなどが使われ、特に王は、煌びやかになっていく。

フランス王「アンリ2世」(1519-1559)wikimedia commons
フランス王「アンリ2世」の肖像は、この上半身のトリミング画で紹介されることが多いが、立ち姿のバージョンもある。全身はこうだ。

おわかりだろうか?
非常に元気に盛り上がった股間。こんな絵もあるし、こんな絵もある。
装飾の重厚さだけでなく、男性としての逞しさを、股ぐらの誇示によって表現することが「バリかっこいい」とされ、あえてブツが前面に押し出されていた。そのための詰め物もあったらしい。
もう1つの特徴は、短いズボンとストッキングだ。この時代は、男性こそが「脚線美」を見せることで、セックスアピールをしていたのだ。
これに対して女性は、足を見せるなんてもってのほか、腰から下が大きく膨らんだドレスを着用していた。

アンリ2世王妃「カトリーヌ・ド・メディシス」 Wikimedia commons
女性のドレスは、この後、ピエロのように丸くて大きな襟になったり(ひだ襟)、襟ぐりが胸元まで大きく開いたり(デコルテ)、スカート部分の張りがごつくなったりはするが、それほど大きな変化は起きない。
だが、男性のほうは、次々とファッションが変遷していく。
これがホンモノ「リボンの騎士」!
やがて、スペインから独立したオランダが、東インド会社によって力をつけ、周辺国から憧れられるようになる。
そして流行したのが、オランダ風ファッションだ。スペイン貴族よりも実用的かつ自由なデザインで、男性は、騎士風スタイルになった。
ポイントは、長靴とキュロット(半ズボン)だ。この時代に書かれた『長靴をはいた猫』という童話が、絵本になって現代の子どもにも読み継がれているが、長靴は身分の高さを示していた。
そして、もう1つ、男性のマストアイテムが次の絵に描かれている。

マッティア・デ・メディチの肖像(1632) Wikimedia commons
三つ編みに赤いリボン!
男装の麗人ではない。口髭の生えた立派な男性である。
リボンは、この時代の青年貴族の必需品とされ、貴婦人に対する礼儀作法とお洒落を意味していた。リボンは、17世紀全般を通して、美術や文学の世界にも描かれるほど一世風靡する。
17~18世紀 ルイ14世の「脚線美とバレエスタイル」
この間も、女性の服装はさほど変化しないが、男性のお洒落への情熱はますます爆発する。象徴されるのは、絶対王政全盛期のルイ14世だ。
父親が逝去して4歳で王位を継承したルイ14世は、幼少期からバレエに熱中。13歳で初舞台を踏み、15歳で主役を演じるほどの名手になっていた。
やがて、自身が実権を握ると、貴族らに対して「宮廷では12種類以上のダンスをマスターすべし」「夕食前にダンスを披露すべし」など命令を下す。
これは、ルイ14世が10歳の時、反乱を起こした貴族に寝室まで踏みこまれた体験に影響している。裏切りへの猜疑心が強くなり、貴族らが反乱を起こす暇がなくなるように、猛烈にバレエを習うしきたりを作ったのだ。
(※女性はバレエを禁止されており、女性役は男性が担っていた)
おかげで、王立舞踊アカデミーからはバレエの専門家が数多く輩出され、ヴェルサイユ宮殿では現在もバレエのコンサートが開かれている。
自身も数々の舞台に立ったルイ14世は、衣装にも凝っていく。

ルイ14世(1638-1715)Une peinture du roi Louis XIV, exposée au château de Versailles.
見よ、このすんばらしぃ~脚線美!!
ルイ14世は、バレエで鍛えた脚線美を見せつけるため、身分の証だった長靴ではなく、ハイヒールを履いた。
当時のパリは下水処理施設がなく、人々が路上に糞尿を捨てていた。そのため、汚物除け目的のハイヒールが流行していたのだが、これを見たルイ14世は、「この靴、俺の足、きれいに見せるやん!」と考え、ファッションとして取り入れたのだ。踵と底縁を赤く塗るのが、ルイ・スタイルである。
ソバージュのような髪は、かつらだ。父親のルイ13世が、薄毛に悩んでかぶりはじめたのだが、ルイ14世は、ファッション化した。
リボンに、ハイヒール、ストッキング、お洒落かつら。
ほとんど現代の女性と同じだが、これが絶対王政時代の階級社会を象徴する服装だった。
革命前夜、極限の人工美に行きついたロココ調
18世紀上流階級の文化は「ロココ調」と呼ばれる。男性は、淡い色彩に、植物の柄など可愛らしい刺繍があしらわれた細身のスーツに、半ズボン、そして、白い絹の靴下をはくのが正装だった。

18世紀上流階級の男性の正装アビアラ・フランセーズ
女性のファッションリーダーは、ルイ16世王妃マリー・アントワネットだ。

マリー・アントワンット(1755-1793)Wikimedia commons
ドレスのスカート部分が、どんどん左右へ張り出すとともに、バランスをとるために髪型が高く大きくなってゆき、最盛期には、頭の上に箱庭や馬車模型、帆船模型を載せるなど巨大化した。馬車に乗るときは、ひざまずき、体を折ったまま我慢していたらしい。
この頃の人物肖像画は、男女ともに白髪や銀髪の姿が多い。白髪や汚れ隠しのために、「髪粉」を振っていたからだ。その原料が小麦粉だったことが、悪天候のために飢えた民衆の不満を高める要因の1つだったとも言われる。
革命のシンボル「半ズボンじゃない奴ら」
1789年7月14日、バスティーユ襲撃事件が発生。パリは混沌に突入する。暴動と虐殺の主役となったのは、手工業者、職人、賃金労働者などの無産市民たちだ。
それまでの絢爛豪華な王侯貴族的なものは徹底的に否定され、ヒーローとなったのはこのスタイルだった。

ルイ=レオポール・ボワイユ(1792年)『サン・キュロットの扮装をした歌手シュナール』
「サン・キュロット」と呼ばれるこのスタイルは、「キュロットでない奴ら(半ズボンでない奴ら)」という意味だ。半ズボンに白靴下をはいていた貴族が、長ズボンの労働者を侮蔑してそう呼んでいた。
だが革命期には、サン・キュロットそのものがイデオロギーとなる。
2024年パリ五輪の開会式で、マリー・アントワネットの生首が「貴族どもを街灯に吊るせ!」という歌詞の革命歌「サ・イラ」を歌う演出があったが(ブログ参照)、この狂気の歌詞は、サン・キュロットによる替え歌だ。
「サ・イラ」の原曲は、当時人気の舞曲で、単にフランスを讃える内容であり、マリー・アントワネットも歌っていた。
それをえげつない替え歌にして、高らかに歌いながら行進する狂気のサン・キュロットは、要求による要求を重ねる。そして生まれたのがロベスピエールの恐怖政治なのだが、サン・キュロットに最も支持されていたはずの最左派のエベールが、ロベスピエールによってギロチンにかけられるという結末を迎えるのだった……。
フランス革命後に発令「女性のズボン着用禁止令」!
そんなサン・キュロットが生み出したものが、1つある。
それは「私もズボンをはきたい!」と憧れる女性たちだ。
バスティーユ襲撃や、ルイ16世とマリー・アントワネット処刑に関わり、大興奮していたパリの女性たちは、自分たちもまた革命の主体であり、サン・キュロットなのだと思っていた。
ところが、ここで露呈するのが「フランス人権宣言には、女性は含まれていなかった」という実態だった。
1800年11月、パリ警察庁により「異性装に関する警察令」が制定され、パリの女性はズボンをはくことが禁じられ、健康上の理由などでズボンが必要な場合は、警察に届け出なければならなくなったのだ。
中世以降のヨーロッパ社会において、ズボンは、封建的な家長制における権威の象徴だった。13世紀には、カトリック教会での説教で、ズボンをはきたがる女性が戒められており、庶民の間では、
「ズボンをはくことは男としての素質を示すことである」
「ズボンをはくものが自由を得る」
など言われていた。
夫婦ゲンカの末に、家長権を賭けてズボンを奪い合うことになり、亭主が死に物狂いでズボンを勝ち取るという笑い話も広く知られている。
また、「異性装の禁止」は旧約聖書にさかのぼる。神を攻撃しているとみなされる行為だったのだ。
つまり、フランス革命によって旧体制を打破し、キリスト教を否定してまで理性を讃えたはずが、女性に対しては、旧時代の習俗と宗教的な観念を引きずる法令が突き付けられたというわけである。
「もう革命は終わりだ。黙れ、女ども!」という政府の本音もあったに違いない。
届け出によって、塗装工の女性や、多毛症で髭の生えた女性などにズボン着用許可が出されたが、彼女たちは警察にチェックされた。反抗してズボンをはく女性たちもいたが、奇異な目で見られたらしい。
この警察令は1892年、1909年に改訂され、「自転車のハンドル」と「馬の手綱」を握る際にはズボン着用が許可されるようになったのち、なんと、法令そのものが、2013年まで存続していた。
もちろん、その間もパリはモードの発信地として、女性向けのパンツスタイルが次々と発信され、有名女優が活動的な姿で登場するなどして形骸化してはいたのだが、自由・平等・同胞愛を標榜するフランス共和国憲法下において、「フランス人権宣言」に端を発する女性差別の法令が、21世紀まで持ち越されていたのだから、「おフランス」には驚かされる。
王制の絢爛豪華こそがファッションを発展させた
ちなみに、「サン・キュロット」になる夢を砕かれた女性たちは、イギリスから輸入された薄い木綿でできた、ほとんど体が透けて見えるシュミーズを着ていた。王侯貴族を否定した挙句に、古代ギリシア・ローマまでさかのぼったのだろうか? 今なら肌着である。

ルイ=レオポール・ボワイユ(1803年)「ジャン=アントワーヌ・ウードン」
実際には、革命直前に、マリー・アントワネット自身が同じような木綿のドレスを着ている絵があるのだが、広く流行したのは、革命後のようだ。
ところが、この肌着同様の服では寒い冬に耐えられず、多くの女性が肺炎で死んだらしい……。
さらに、このイギリス製の木綿が流行したために、フランスの絹の生産が打撃を受けた。そこで、ナポレオンがイギリス製品に課税し、国内の織物産業に注力する。
その後、皇帝となると、宮廷において、男性はキュロットに白い絹靴下、女は絹を使った華麗なドレスを着ることが定められ、再び、ファッションは華美なものへの憧れを取り戻す。木綿から絹へと注目が戻り、それが、ブルジョアジーによるフランスの服飾産業の発展へとつながるのだ。
19世紀には、イギリスの「ダンディズム」が入り、体のサイズに合ったスーツが流行。それは産業と資本主義の発展によって、簡略化、定型化された紳士服となり固定化した。男性が着飾る時代は終了である。その代わりにパリを中心に盛り上がることになったのが、女性服というわけだ。
王や資産家など富を持つ人々がいなければ、服飾文化は花開かなかった。
だがその文化も、今度は、グローバリズムによって平板化しつつある。イマドキは、富を持つ人間もTシャツにジーパン。おまけに、服装について褒めるのは「セクハラ」となり……。
ファッションに限らず、文化を壊すものは一瞬の狂気。だが、文化を守るには「国を発展させてやる」というほどの気概が必要なのだ。
(2024.8.5連載稿より)