(2018.7.9連載原稿より)
世界中の戦争報道に多大な影響を与えた20世紀を代表する戦場カメラマンを紹介しようと思う。

ロバート・キャパ(1913-1954)
ハンガリーのブダペストに生まれたユダヤ人で、スペイン内戦、日中戦争、第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線、イスラエル独立とパレスチナ戦争、第一次インドシナ戦争と数々の戦争を文字通りの「最前線」で取材し報じてきた“世界最高の”と冠のつく報道写真家だ。
これまで仕事でいろんな写真事務所に出入りしてきたけれど、このキャパの肖像写真はあちこちで見かけた。スタジオに、まるで神棚のように飾っている写真家もいた。キャパに憧れ、影響を受けて報道を目指した人は世界中に大勢いるだろう。
過酷な戦闘のなかで撮った写真に、ちょっとユーモアを交えたキャプションや体験レポートをたくさん添えて残している人物で、写真展ではじっくり目を通したくなる文章も多く展示されていた。まずは代表的な写真を紹介したい。

1944年6月6日撮影、第二次世界大戦、ノルマンディー上陸作戦。
連合国側のキャンプに同行して招集がかかるのをひたすら待ち、フランスのオマハ・ビーチに上陸するアメリカ軍の第一陣と一緒になって船に乗り込み、大荒れの海へ出発。兵士らと一緒になって、銃弾が雨あられのように降り注ぐなか、大荒れの海に飛び込み、命懸けで上陸しながら撮影したものだ。
周囲の兵士たちは、海水のなかでどんどん撃たれて死んでゆく。それを撮る。負傷者を救護するために飛び込んだ衛生兵も目の前でたちまち撃たれてゆく。それも撮る。フィルムを交換していると、突如として全身がニワトリの白い羽で覆われ、「誰かがニワトリを殺したのか」とあたりを見渡すと、砲撃に吹き飛ばされた兵士の防寒コートから噴出したものを浴びていたことに気づく。それも、撮る。
キャパはノルマンディー上陸作戦で134枚を撮影。ところが、ロンドンの『ライフ』誌編集部に届けられたネガを受け取った暗室アシスタントが、編集者から「はやくプリントしてくれ!」と急かされて、興奮して慌ててしまったあまり、現像の過程で温度設定に失敗。なんと98枚ものフィルムを溶かしてしまい(!)、なんとかプリントされた写真は、たったの11点だったという。しかも、ピンボケしたりブレたり、きちんと撮れていないものばかり……。
ところが、『ライフ』誌は商魂たくましい、というか、まったくふざけてるというか、この事実をまだ戦場にいるキャパに内緒にしたまま、残されたピンボケ写真に
《その瞬間の激しい興奮が、写真家キャパのカメラを震わせ、写真にブレをもたらすことになった》
というもっともらしいキャプションを勝手につけて、誌面で大々的に発表。すると、このピンボケブレブレ写真が、戦場の凄まじい衝撃をイメージさせることになり、大変な反響となった。
キャパ自身も「戦闘の興奮を伝えるためには、ほんの少しカメラを動かしてみるといい」と何度も後進の報道写真家たちのために語っており、あえてボケ・ブレで撮った戦場写真は多数残っている。銃弾が降り注ぎ、どんどん人が血まみれで死んでいくなかで、表現のためにカメラを動かしながら撮るなんて、それだけで普通の精神状態じゃないが、キャパの代表作は、こんなユーモラスなタイトルだ。

反骨精神と架空の写真家「ロバート・キャパ」
ロバート・キャパは、本名をアンドレ・フリードマンという。アンドレの出身地ブダペストは、もともとは「ブダ」と「ペスト」の二つの都市が合併した場所だ。
ブダは、17世紀後半の戦争でオーストリア軍が占領し、街の再構築のために移住させられたドイツ人たちが多く暮らしてきた。軍事と政治の中心地で、古城がそびえ、封建貴族と裕福なドイツ人の上流階級が多く、ドイツ語が一般的。一方のペストは、中産階級のユダヤ人が多く、経済と商業の中心地で、芸術が栄え、ハンガリー語が一般的。ハンガリー人のナショナリズムと反帝国主義の砦だった。
ユダヤ人のアンドレが生まれたのは、合併後のペスト側。アンドレは、反骨精神をたぎらせている「ペストっ子」として育ったという。
10代のうちにカール・マルクス、トーマス・ジェファーソン、ヴォルテールなどを読み込むとともに、政治と文学にのめり込んだアンドレは、大学へ進学してジャーナリストになりたいと志したが、当時の独裁政権が、左翼的なインテリが増えることを恐れたことと、ユダヤ人排斥主義だったことで、ハンガリー国内での大学進学は叶わなかった。ユダヤ人は、金融や商業に携わることが推奨されていたのだ。
政権への憤りや将来への悲観を発散するためにデモに参加していたアンドレは、秘密警察からの弾圧を体験。過保護な母親にも反発して、18歳のとき、一人でハンガリーを飛び出した。それ以降、常に2~3か月単位で安ホテルやアパートを転々としながら、写真を学び、ジャーナリズムを学び、戦場を渡り歩きながら、生涯に渡って「完全なる放浪のユダヤ人」として人生を過ごすことになった。

放浪の末、フランスに亡命し、パリでギリギリの生活をしていたある日、恋に落ちたのが、アンドレと同じくユダヤ人で生まれ故郷ドイツを追い出されて家族と生き別れ、写真通信社で働いていたゲルダという3歳年上の女性だった(写真右)。
二人は、安ホテルで一緒に暮らしながら協力しあって記事を書いていたが、アンドレには写真の才能があるものの、なかなか買ってもらうことができなかった。アンドレの姓「フリードマン」はユダヤ人に多く、“惨めな亡命者”という印象を持たれて相手にされなかったのだ。そこで、ゲルダがこんな発案をした。
「有名な、アメリカ人写真家のふりをしてみたらどうかしら?」
そして誕生した架空の写真家が「ロバート・キャパ(Robert Capa)」だ。
覚えやすくてキャッチーで、アメリカ人の名前に見えるし、フランス人だと言われるとそう見えるし、さらに「ロベルト・カパ」と読めばスペイン人にも見える。ゲルダも本名を隠し、交友のあった岡本太郎から名前をとって「ゲルダ・タロー」と名乗った。
こうしてアンドレは、自分自身を「ロバート・キャパの助手」というふりを、そしてゲルダは「ロバート・キャパの代理人」というふりをして、ふたりで「あの驚くほど有名なアメリカの大写真家ロバート・キャパ」の写真をパリの編集者たちに売り込みまくった。
「あのロバート・キャパの手による写真です。もちろんご存じないわけございませんよね?」
アンドレにはもともと写真の才能があったので、編集者たちはたちまちその素晴らしさを素直に賛美し、アンドレとゲルダの言い値でカネを支払うようになった。通常のルポ写真の3倍の値段だったが、すんなり通った。編集者たちは「キャパ様とお会いしたい」と願ったが、ふたりは「あまりに多忙で時間がとれない」とかわし、資金をためた。
二人はアメリカへ渡ると、今度は「あの驚くほど有名なフランスの大写真家ロバート・キャパ」や「スペインの巨匠ロベルト・カパ」を売り込んだ。やはり写真は売れに売れた。
こうして資金を手にした“二人三脚のロバート・キャパ”は、一緒に戦場取材へと飛び出していく。
アンドレ22歳、ゲルダ25歳がぶちかましたハッタリだった。
崩れ落ちる兵士
そして、キャパの名前を本当に世界的に有名にした写真が生まれる。
1936年のスペイン内戦、フランコの軍事クーデターによって樹立した独裁政権と、反ファシズム陣営の人民戦線政府の戦いにおける一枚だ。

1936年9月に撮影されたこの写真は、スペインのコルドバにおける戦線で、人民戦線政府の兵士に従軍していた際、銃弾の飛び交う中で撮影された、「撃ち抜かれて死ぬ瞬間の人民戦線政府の兵士」の姿だ。
この一枚の写真は、まずフランスの『ヴュ(Vu)』誌で発表され、ついで、アメリカの『ライフ(LIFE)』誌で「崩れ落ちる兵士」というタイトルとともに世界中を駆け巡り、ピカソの『ゲルニカ』とともに反ファシズムのプロパガンダ・シンボルとして扱われるに至り、22歳のロバート・キャパの名前を世界的に有名にした。
アンドレは、「キャパの助手」のふりをやめて、自分自身がロバート・キャパとしてインタビューを受けるようになった。ゲルダの発案から1年も経たないうちに、本当に「あの驚くほど有名な」写真家になったのだ。
ロバート・キャパが有名になると同時に、その立役者であり、キャパの片割れであり、最愛の恋人であったゲルダは、内戦取材中のスペインで、戦車に轢かれて死んだ。26歳だった。
ゲルダを失うと同時に、世界的な戦場写真家として一人残されたキャパは、その後、とりつかれるように戦場を渡り歩き、どこに安住することもなく、戦争写真の名手になった。
ところが、この写真「崩れ落ちる兵士」には、疑惑が付きまとった。
「あまりにできすぎているのではないか?」
「撃たれたにしては傷口が見えないぞ」
キャパが、インタビュー答えた説明を要約すると――
「キャパと知り合ったこの兵士は人民戦線政府軍の陣地に戻りたがっていた。
何度も何度も砂嚢をよじ登り、そのたびに機関銃の掃射を浴び、転げるように降りてきた。兵士は「一か八かやってみるつもりだ」言うと、キャパと一緒に豪から這い出た。その瞬間、機関銃が火を吹いた。
キャパは相棒の兵士の体の傍らで仰向けに倒れながら、本能的にシャッターを切っていた」

ところが、はじめて写真が発表された際『ヴュ』誌を見ると、写真は一枚ではなく、地面に倒れ込んだショットとの連続写真になっていた。しかも二枚目は、一枚目の人物とは服の色からしてまったく違う別人なのだ。
その後、キャパは、日中戦争、ノルマンディー、パレスチナ、インドシナと鬼のように最前線に突入するようになり、凄まじい戦争報道の数々を飛ばし続けたため、その凄みの前に疑惑は流されていった。
科学的にこの写真の疑惑が再検証されたのは、キャパの死後のことだ。
やはり、『ヴュ』誌の二枚は、別人であることが判明し、この写真の画角が、キャパの愛用していた「ライカ」のカメラではなく、ゲルダが愛用していた「ローライフレックス」というカメラでなければ撮影不可能であることも発覚。
さらに、キャパの遺品から、当時同じ場所で撮影された他のフィルムも発見され、その結果、アンドレとゲルダが、民兵たちのリラックスしている休憩所にいて、一緒に並んで野原に座っていたこと、この写真はふざけて斜面を滑ってひっくり返る瞬間の民兵を、ゲルダの座っていた位置から、ゲルダのカメラで撮ったものということがわかった。
ダメ押しに、2009年になって、写真の背景に写り込んでいる山の稜線を割り出して、撮影場所を確定させた中学生が現れ、当時、この丘では戦闘が行われていなかったことも発覚したのだった。
「崩れ落ちる兵士」は、故郷を追われ、生涯放浪生活を送ったユダヤ人・アンドレとゲルダが作りあげ、メディアからもそのように望まれて広められた、反ファシズムのためのプロパガンダ写真だった。
そして、アンドレの公私のパートナーであり、名立役者であったゲルダが、死の直前に、後世の戦争報道に多大なる影響を与える「ロバート・キャパ」を誕生させた、人生最大のハッタリ・プロモーションでもあった。
死ぬまで「ロバート・キャパ」として戦場で写真を撮り続けるしかない、アンドレはそんな風に人生を覚悟したのかもしれない。
この嘘、非難できるだろうか?
「危険を冒さなければいい写真が撮れないなら、迷わず危険を冒す」
「戦場写真家は、所詮はギャンブラーだ」
ロバート・キャパは、1954年5月25日の午後、第一次インドシナ戦争の取材のために訪れたベトナムで、ほかのジャーナリストらが尻込みするなか、危険地帯へどんどんと歩いてゆき、そして地雷を踏んだ。最期の一枚は、前進する兵士の姿だった。